32.成立 -- 後戻りしない

 約束の日。
 飛行船に乗り、彼方のいる山岳地帯に向かうと、そこは以前下見に来たときとは様子が変わっていて、多くの木々が倒されたり地面には亀裂が入っていた。
 彼方に貸し与えた小屋で待っていると、発信器の位置が近づいてくるのがわかる。

 3日ぶりに会う彼方は息を切らして小屋に入ってきた。
 彼方が息を切らすなんて、とても珍しいことだ。
 特にこの世界に来てからは心肺機能もどれだけ上昇したのかわからない。
 頭を冷やすためによっぽど無茶な修行をしてきた帰りなんだろう、憔悴しているようだ。

「答えを聞きに来たよ、彼方ちゃんは帰る? 帰らない?」

 さりげなく問題を摺り替えてみる。
 予防線はいくつ張ってもいいと思った。
 薬指に授かった指輪が香恋に勇気を与える。

「……帰る。香恋の条件も飲むよ」

 ほっと息をついた、香恋が何を恐れていたのか彼方は知る由もない。
 さすがにここで無駄な情に流されて血迷われることがなくて安心した。

「最初に聞いたときは驚いたけど、考えてみれば理不尽なことじゃない。
何もできなかった俺と違って自分で念を作った香恋はすごいと思うし、立派な取引材料だ。だから、」
「うん。もともとここにいるはずがなかった彼方ちゃんが、この世界に対して何もしないのは全然変なことじゃないよ。帰ってしまえば無関係だしね」

 これで遥君に会えるね、よかったね と甘やかすようなことを言う。
 彼方の罪悪感が減るようにという気遣いと名付けることも、香恋自身の罪悪感を減らすための行為とも名付けることもできる。
 二人しか知らないお互いの罪は、目隠しをしてしまえばなくなるのと同じことだ。
 赦しは乞わない。どうせ自分を赦せないのだから。

 香恋は彼方から取り上げていた携帯を返して、シャルナークに連絡を入れさせる。
 別れを言いたいだろうと思って、通話することを許可した。

「もしもし、シャル――あぁ悪い。それよりさ、帰る方法が見つかったんだ――そう、俺の故郷に。だから今から帰るわ――次の仕事手伝えなくて悪い。今までありがとな」

 まともな情報は与えられないで、ただ働きをして、生活費は賞金首を狩って自分で稼いで。
 半ば騙されていたようなものだと最後まで気づかなかったらしい。
 帰るまでの間というのも約束済みのことだから謝ることだってない、と香恋は思うのだけど、純粋というか単純というか。
 彼方は自分の行動を正当化するためにあえて気づこうとしなかったのかもしれない。
 知らない方が幸せなこともあると思うから、あえて教えたりはしない。

 少しだけ意地悪を――確認をしたくなった。

「ねえ、遥くんは彼方ちゃんのこと忘れちゃってるかもしれない、別の恋人がいるかもしれない、傍にいられるとは限らないよ」
「別に俺は遥のために帰りたいわけでも、遥とどうにかなりたいわけでもな……」
「嘘禁止」
「……いいよ。それでも。俺はまたあいつの歌が聴きたいんだ」

 そのまっすぐな瞳は、己の行動を理屈で塗り固めることを必要としない。
 馬鹿らしいくらい明快で、羨ましいほどだった。
 いっそ幸せになればいい。

「じゃあ、いつ帰ることにしようか?」
「いつでもいいのか?」
「詳しい能力の説明してなかったと思うんだけど、あと数ヶ月は猶予があるよ。
13時っていう制約もあるから、最短だと明日。
前に言ったとおり、もう少し滞在するつもりならヨークシン編が終わるまでは行動を見張らせてもらうことになるけど……」
「変に間空けるの面倒くせーし、明日で頼む」

 彼方にしてみれば、わざわざこの世界で知人が死ぬ日を待つのは気持ち悪いし、事件が終わってから何食わぬ顔で現場に顔を出すのも嫌だった。

「あのね、香恋の能力でむこうに行かせてあげるのは一度だけだよ」
「へえ?」

 それもたしか初耳だ。
 どうせこの世界に用はないのだが、香恋には会えるものならいつかまた会いたいし、また事故でこっちに来てしまうことがあるかもしれないとは思っていた。

 香恋は己の能力を説明する。

 ――『開かずの扉(クローズド・ドア)』 具現化系能力。
 三年以内に行ったことがある場所ならどこにでも通じる扉。
 観音開きの押し扉で、出ると自動的に閉まる。
 ただし一度開けると五年間開かなくなる――

「だからもしも次にこの世界来ちゃったら、この世界で死ぬと思ってね」
「五年後ならいいんだろ?」
「五年に一度の貴重な機会を彼方ちゃんのためにまた使うの? 保証しないし、面倒も見ないよ」
「……そっか。わかった」

 ぴしゃりと香恋は手厳しい。
 彼方に対しては遠慮しなくていいと感じるから、猫被りの塗装が少し剥がれる。
 気軽な言葉のやりとりをできることが懐かしい。
 ハンター試験を受けた頃はたしかこんなふうだった。
 生きることに必死だったから、学園生活を送っていた頃よりも随分余裕がなかった。

「あれ……でもそれじゃ俺が使ったら香恋はもう帰れないじゃないか」
「いいんだよ、帰る気ないもん」
「じゃあそんな不便な能力……俺のためだけに?」
「彼方ちゃんだけのためじゃないから取引したんじゃない」

 口先ではそう言うが、本当は、共に歩むことを選べなかった せめてもの償いに近かった。
 あのとき、"帰る方法を一緒に探そう"と言えず、彼方が旅団を手伝おうとするのを引き止められなかった。
 『開かずの扉』というカードができてからは彼方を連れ戻すという道がいつでも傍にあった。
 彼方が旅団に入れ込まなければ悲劇は悲劇ではなかったから、つくづく残酷なことをした。

 香恋は自分の願望を最優先にした。
 一緒にこの世界で生きない彼方を繋ぎ止めても、きっと香恋は幸せじゃなかっただろう。
 自分の意に反することを叶えるためだけに能力を作る、都合のいい道具になることなんてできなかった。

 それぞれにそれぞれが選んだ道があり、香恋は新しい自分としてこの世界で生きたかった。
 だからリスクを負ってまで離れ、契約の時を待った。
 お姫様になれない魔女は憎まれ役くらいがちょうどいいと思ったのだが、彼方は香恋を恨まない。
 瞬間的な怒りを身に宿すことはあっても、陰湿な怨嗟とは無縁の少女だ。

「向こうの世界とは常識が違うこの世界の"強さ"に心残りはない?」
「……二年は自由に過ごしてたんだ、十分だよ」

 そこはかとなく飽いてしまっていたのは、満たされなかったからだ。
 満たされなかったのは、きっと大切な歌が傍になかったから。

「俺は弱い。強さが足りないのは俺自身が未熟だからで、環境のせいじゃなかったってよくわかった。今の望みを叶えられたらまた模索するよ」
「ふうん……念もない、対等に戦える相手も少ない。それでもいいんだね?」
「あぁ。身体は鍛えられたけど、きっと俺はあの世界にいたほうが強さにひたむきであれたと思う」

 その決意だけでも、きっとこの世界に来た価値になる。
 彼方は体の強さばかり求めて、心が追いついていなかった。
 内なる弱さから目を背けることが表面上の強さを集める方向に向かわせたのかもしれない。得意を伸ばして苦手をなおざりにした。
 この世界に来て、痛いほど自分の弱さと直面したなら、これから向き合っていくこともできるだろう。
 性急さは身を滅ぼすから、愛する人の傍でゆったり熟させていくのでもいい。
 いつか心が成長すれば彼方は今の数十倍の強さになると香恋は思っている。

「ちなみに彼方ちゃんって漫画はどこまで読んだの?」
「この後はゲームに行くんだよな。そこまでくらいかなぁ」

 半年も借りていた漫画を最後まで読み切らなかったのは、その頃 念の修行に没頭し始めたからだ。

「ゲーム……グリードアイランドに未練はない?」

 あのゲームを実際にプレイしてみたいと思う人は多いはずだ。
 多少の危険も彼方なら問題にならない。
 執拗に確認を取るのは、後悔されたくないから。
 後悔によってまたこの世界に来るなんて気の迷いを起こしてほしくないからだ。

「別に……帰る方法があるかもって言われてたからクリア目指すつもりだったけど、俺ほとんどゲームしたことないからこだわりないな。香恋はどこまで読んだ?」
「あった分全部読んだよ。その次の章が始まったくらいかな」

 もしも彼方がキメラアントの存在を知っていれば、ますます危険なこの世界に香恋を取り残すことを渋ったかもしれない。
 キメラアントと戦ってみたいなんて馬鹿なことを言い出して、死に急いだかもしれない。
 だから好都合だと香恋は思う。
 『開かずの扉』の五年という数字は これから最低二年間は彼方がこの世界に立ち入らないように――キメラアントと戦うことがないように と、設定した。
 その未来は阻止するつもりではあるけど、どんな不備が起きるかわからない。

 強さと弱さは共存して、
 愛しさと憎たらしさは同居して、
 器用さと不器用さは同じ物で、
 いたわりと仕打ちは並行して、
 慈悲と無慈悲も併存する。

 とんだ茶番が、ようやく終わる。
 彼方はこの世界から抜け出せて、香恋は元の世界のしがらみから解放される。――明日。


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