31.約束 -- 決して迷わぬように

 彼方には「修行のためしばらく留守にする」という旨を旅団へメールを入れさせ、今までの携帯を没収し、借り倉庫に預けて、別の発信器と通信機を持たせ、その足で飛行船に乗り、人里離れた山奥に向かわせた。都市よりも落ち着くと言って、いくつかの候補地から彼方が選んだ。
 連絡がつかないことは文句を言われるかもしれないが、彼方が旅団でも昔と似たような生活をしていたのならそう不自然なことじゃない。探そうとは思われないだろう。
 これから旅団に起きる悲劇を知っていれば別の話、だが。

 3日後に香恋は彼方の元へ返答を聞きに行く手はずになっている。
 彼方だって別れを前提にして旅団と会えば悲劇的な気持ちになるだろうが、一人で修行に明け暮れれば本来の目的しか見えなくなる。はずだ。
 飛行船場で別れるまでの間、何度も香恋を説得しようと試みていたが、「ごめんね」と困ったように言うだけにした。

「……香恋、どうした? 」
「え?」
「 疲れてんの? なら毒が効きやすいから気をつけろよ。
――ったく、こんなの飲まなくていいって言ってんのに」

 キルアが握っている瓶には様々な毒が一定の比率で入っている。
 ゾルディック家に滞在している間 食事に混ぜられていたのと近い種類のもので、香恋は毎食紅茶に少量を混ぜて飲んでいる。
 正確に量らないと文字通り痛い目に遭うし、解毒剤ももちろん常備必須だ。
 花嫁修業の一部だったのだが、家を出た今では不要ではないかとキルアは思っている。

「毒に耐性付けるのは無駄なことじゃないからいいの」

せっかく埋めた許嫁の外堀を自ら手放すような真似はしない。

「香恋、疲れた顔してた?」

  うまく笑えてなかったのか、と焦る。 できることならいつでも微笑みを絶やさずにいたい。
 幸せな顔をしていれば、幸せだと思えるかもしれない。いつか幸せになれるかもしれない。
 水面下で必死にもがいているところなんて綺麗でも可愛くもないから、見せるものじゃない。
 もう板についてたと思っていた。もしかしたら微熱があるのかもしれない。

「疲れた顔っていうか浮かない顔。ぼーっとしてんの珍しいよな。なんかあった?」

 ――あった。
 親友に酷く利己的で自己中心的な要求を突きつけた。
 それによって親友との永遠の別れが誘発される。

 その選択が間違っていたとは思わない。
 大切な物を守るために 大切じゃない物は切り捨てるべきだ。
 事は予定通りに上手くいった。加害者が被害者ぶるなんて最低だ。

 ――計画に穴がないと言えば嘘になる。
 もしも彼方にとって香恋よりも旅団が大事になっていたら?
 彼方にその気があれば、香恋を裏切ることは可能だ。
 非情にさえなれば、目的のために手段を選ばなければ、できることはいくらでもある。

 たとえば彼方が香恋を取り押さえるのはたやすい。
 逆に彼方を拘束するためにはどんな熟達者を何人雇えばいいのかかわからない。

 たとえば旅団には操作系のシャルナークがいる。
 彼や団長、あるいは雇った他人の念能力で香恋を操作して、
 旅団を助けた上でも元の世界の扉を開かせる という選択肢がある。

 たとえば電話一つで旅団に"鎖野郎"がクラピカだと伝えることも、
 ゴンやキルアに「クラピカ=鎖野郎」の図を前もって教えておくこともできる。
 そう言って香恋を脅すこともできる。きっと香恋ならそのどちらかを選択するだろう。

 一通りしかないモノを守るのは大変だが、壊してしまうのは簡単だ。
 たとえば反則の知識を以てすれば、グリードアイランドの最後で同行(アカンパニー)でなく磁石(マグネティックフォース)を使えと助言することも、キメラアントの女王が生まれた時点で駆除してしまうこともできる。

 こちらの手の内を明かしてしまった以上、彼方に自由な行動を許すのはそれだけ香恋にとってリスクが大きい。
 彼方は自力では気づかないだろうし、気づいてもそんな非道いことを実行しないとは思う。
 八百長とは無縁なのが彼方だ。

 ――笑える話だ。
 自分は非道を選んで彼女を切り捨てたのに、甘いなぁって笑ったのに、香恋は彼方の良心を信じている。
 自分にない愚直さと躊躇う心を持っていたから、惹かれた。

 人間性の違いというやつだろうか。
 こんなふうじゃない生き方ができたらよかったのに、わざわざ自分で心の醜さを浮き彫りにしている。
 けれど守る手段が他に思い付かないんだよ。宿業なんだからしかたない。
 他人のオーラを消してしまうという特質は拒絶の才能だ。

 綱渡りなのは仕方ない。
 元手が少ないのだから、すべて惜しんでる場合じゃない。
 ぎりぎりの賭けをしないと得られないものばかりだ。

 きっと大丈夫。
 "彼方ちゃん"はこれ以上矛盾を抱えることはできないはずだ。
 これ以上大切なものを増やしたりしないし、元の世界を拠り所にする彼女にとって香恋(三次元)よりも旅団(二次元)を選ぶことなんてできないはずだ。

 旅団を守ることが絶対の目的に数えられていないのだったら、元の世界に帰れなくなるかもしれないリスクを負うことなんてできないはずだ。

 ――旅団を見捨てて元の世界に帰るか、元の世界に帰らず旅団を守るか、旅団も守って元の世界に帰るために香恋を踏みにじるか。
 彼方にとって選択肢は一つにしか見えないだろう。
 あの怖がりな親友は 帰れないこと・最愛の人に二度と会えないことを何よりも恐れている。

「だいじょうぶ、だよ」

 心配してくれるキルアに対して、笑えないなら泣いたほうが可愛いかもしれないと一瞬思ったが、咄嗟に涙が出なかったので手のひらで覆い隠してしまう。
 肩を震わせて、弱がってみることにした。

「嘘。ほんとは不安でたまらないし、寂しいの」

 思うことはたくさんあるが、その中から綺麗で可愛いものだけを取り出して、表現する。本心なんて醜いだけだ。
 ふと、全部話して、晒してしまいたくなる。
 「もう疲れちゃった」って言って全部投げ捨ててしまいたくなる。それはプライドが許さないからできない。
 普段はこんなふうに感情が緩んだりしない。弱音を吐きたくなったのは"キルア君"に対してだからだ。

「何があった?」

 異常な事態だと察してくれたらしく、キルアは香恋の傍に来た。
 さてどうしようか と 考える香恋はやっぱり打算的だ。
 どれだけ外面が良くても、笑顔を研究しても、言葉を選んでも、もてはやされても、内面の醜さが滲み出てしまいそうで怖い。
 見てくれはいくらでも磨けるし、自分好みに作った像は完璧だと思うのに、香恋は香恋のことがまだ好きになれない。

「俺には話せない?」

 ふるふると首を振った。壁を作っていると感づかれたいわけじゃない。
 むしろ誰よりも近しくありたい人なのに、踏み込ませられない内面があるのは香恋の欠点だ。

「今日は彼方ちゃんと会ってきたんだけど、意見が食い違って喧嘩しちゃって」

 あんな理不尽な喧嘩があるものかと思うけれど、キルアに対して話す分にはいいだろう。

「彼方って、お前が最初うちに来たとき一緒にいた男?」
「一応訂正しとくと、彼方ちゃんは女の子だよ」
「……嘘だろ」
「ふふっ ほんとだよ。たいていの人には間違われてると思うけどねー」

 男だと思われていたほうがこの世界では生きやすかったのだろう。
 あえてここで訂正しようと思ったのはキルアに余計な誤解を与えたくなかったからだ。

「喧嘩、なんか協力しようか?」
「今度ちゃんと仲直りするから、大丈夫だよ」
「あいつと香恋ってどういう関係?」
「友達だよ。大切な親友――だったの」

 現在形にすべきかどうか悩み、結局過去形にした。
 喋っていれば、訓練された表情筋は自然に動く。
 花が咲いたような満面の笑顔も、無垢な微笑みも、くすくすと楽しそうな笑い声も、明るく可愛らしい表情も、時には瞳を潤ませることさえも、習得した技術だ。

「……香恋って器用だよな」
「なにが?」
「そういう話しながらいつもと見分けつかない笑い方してるところとか」

 ぴたりと表情が止まったのを自覚する。
 作り物だと、気づかれてしまった? 気づかれるほど綻んでいた?
 ゆるゆると怖れが込み上げた。どうか嫌いにならないで。

「変かな?」
「変じゃねーよ。いろいろと器用なのは知ってたし。
ただもうちょっと俺を頼ってもいいっていう……ことだ」

 最後まで言う前にキルアはそっぽ向いてしまった。耳が赤いのが見える。
 不意を衝かれて、こっちまで赤くなってしまう。
 心からいとしいと思った。きっとこの道は間違ってない。

 2年前、婚約者の話が出たとき、香恋は「嬉しい」と言った。
 キルアは「香恋ならいい」と言った。
 『香恋"が"良い』と言ったわけじゃない。まだ。

 外堀を埋めることはキルアの選択肢に入り込む手段だったけれど、なりゆきの延長にある愛を望んでいるわけじゃない。我が儘なんだろうな。
 ささやかな好意を男女間だから恋と呼ぶのは暴力的だ。
 閉ざされた世界で交流を持てたからって、狭い庭で育まれた絆は 広く自由な世界に出れば価値が薄まってしまう。
 繋ぎ止めるためにできるのは祈りだけだ。

 運命の相手なんてずるい。
 努力しなくても惹かれ合って、遠く離れていても黙っていてもお互いに心が通じ合ってしまうなんて。
 そんなものなくたって恋は作り出せるはずだ。

 まだ互いに知らないことだらけだけど、香恋の本心の片鱗を見つけて、掬い上げてくれたから、いつか全てを預けられるかもしれない。
 その可能性のためだけに、香恋は全てを賭けてここにいる。

「キルア君、いつかきっと香恋を迎えに来てね。そしたら香恋はどんな危険にも飛び込むから」

 "迎えに行く"というのはキルアがゾルディックの家を出たときに言ってくれた言葉だ。
 いつか全部打ち明けて、誰にも喋ったことがないことまで喋って、
 頼って、助けを求めて、傍にいて、支えることができるようになりたい。

 ――それを聞いて、キルアは思った。
 あの時は香恋はゾルディックの中にいて、キルアだけが外に出たから、そういう言葉が出た。
 今はふたりとも外にいる。
 香恋好きなところに行けるし好きなところについて来られるし実際にそうしている、こんなに近くにいるのに、"迎えに行く"という行為にはならないらしい。
 今「迎えに来た」って言ったらどうなるんだろう?
 寂しくて不安だと言いながら笑う香恋が何を望んでいるのか、何をしたら喜ばせてやれるのかわからない。

「……あのさ、香恋、なんか欲しいものある?」
「え、だから約束が欲しい」
「約束はしただろ。破んねーよ。それ以外で、なんか形のあるものでさ」
「――じゃあ指輪がいいな。
これは制約と誓約がかけてあるからあんまり外せないんだけど、左手の薬指は空けてあるの!」

 人差し指輝くのはお姫様の呪いのかかった指輪。
 できればペアがいい、とねだった笑顔は贋物じゃなかった。

 キルアは少し羞恥を見せたが、「わかった」と了承した。
 オークションで金を稼ぐための品物を調べながら、良い指輪も一緒に探してくれるかもしれない、香恋のことを考えることを時間を作ってくれるかもしれないと思うと、嬉しかった。

「キルア君にはチェーンに通して首からかけるのが似合うと思うから香恋が買っておくね」

 約束の証があれば何よりも報われる。救われる。道しるべになる。
 そのお守りがあれば、きっと香恋はやりとげられると思った。


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