29.遠方 -- 遥か彼方なる君

 『――水溜りの海から抜け出せずにいた 凍りついた世界の中 僕を待つ 君の元へ』

「それ、なんて曲?」

突然、シャルが彼方に聞いた。

「……何が?」
「今歌ってた曲だよ。最近ずっと歌ってるよね?」
「何も歌ってねーけど」

彼方は音楽を聴かない。
元の世界では遥に借りたCDを聞き流すこともあったが、こちらの世界に来てからは一切聴いていない。
昼間に繁華街を出歩くことはめったにないから、街で流れていた曲を覚えてしまったということもないはずだ。

「こういう曲」

シャルがメロディーラインを口ずさむ、彼方はやはり聴いたことのない曲だと思った。
だがなぜか胸を掴まれるような切なさを感じたから不思議だ。
知らないと伝えると、シャルは彼方をじっと見つめて熱と脈を測る。

「正常に見えるけど、最近体調に変化とか違和感はあった?」
「なんもねーよ」
「まぁ一応除念か検念したほうがいいよ。探しておくね」

念能力――特に恨みを買いやすく首を狙われやすい身では常にそういう心配をしなくてはいけないらしい。
賞金首ハンターである上に旅団の手伝いもしている彼方は、いくらでも恨みを買うような覚えがある。
知らぬ間に誰かから呪いを受けていても不思議はなかった。
ゾルディックの屋敷で試された経験から、毒や薬は効かないとわかっているが、他者の念には注意すべきだ。

除念 と言われて、香恋のことを思い出した。
シャルは香恋が除念師であることも、彼方と現在連絡を取れる関係でないことも知っている。
だからそれは香恋を探してくれるわけではないのだろう。

「特に、死者の念だと厄介だから」

この世界で呪われて朽ち果てる自分を想像して笑った。
死ぬのは怖くない。
元の世界に帰れないことが恐ろしい。

「遥……」

口ずさんだということは、彼方が知っているということは、かつて遥から借りた、あるいは遥が歌ったことのある曲なのだろう。
意識して思い出せないし曲名もわからない。
自分の知らなかったところに遥の影響が残っていることを喜ぶべきなのか、薄れてしまったことを悲しむべきなのか。

強さを求めたいなら、元の世界に帰ることは正解ではないと思う。
だが遥がいるから彼方は"帰りたい"と強く思うし、絶対に帰るという決意に繋がり、支えになる。

「シャル、俺が帰るための情報はないのか」

そのための協力関係のはずだった。
そのために彼方はただ働きを甘んじてきたのだ。
その取引さえ守ってくれれば不満はなかった。

蜘蛛の仕事では地味で過酷な場所に配置されてこき使われたが、
規律はとても自由で、堅苦しくないのはよかった。
この世界で他に拠り所のない彼方は、ここを居心地にしつつあった。

人殺しの手伝いも――だってここは彼方の世界ではない。"漫画の中"なのだ。
この世界の「ヒト」に無関心になることで、罪悪感が生まれるのを無意識に防いだ。
"覚悟"しないなら思考を停止して割り切らなければ人は殺せない。

元の世界に帰るつもりだからこそ、この世界は仮のものだと扱える。
自己中心的になれる。すべてを目標達成のための踏み台にできる。
彼方は絶対に帰らなければいけない。
それが彼女の心を守っている仕組みなのだから。

「あ、そうそう。言おうと思ってたんだけど、
前に少し喋ったGI(グリードアイランド)ってゲームは
ヨークシンのオークションにもいくつか出品されるみたいだから、今のところそれが一番有力かな」

グリードアイランド。
それは彼方も覚えている。漫画にも出てきたゲームだ。
どんなカードがあるのかなんて僅かしか覚えていないが、
たしかに努力によって様々な願いを叶えてくれそうな場所だ。

―― 『そのうち有力な情報が掴める』
その言葉を信じて、ただ"待つ"のはあまりにも楽だった。

"おしい"能力者には何人か出会えた。
旅団も協力してくれる。
自分でも機会があるたびに調べた。

もしかしたら騙されているのかもしれない と考えることくらいあったが、
行き詰まるたびにシャルは蜘蛛は彼方にちゃんとこうやって次の道を提示してくれる。
だからまた彼方は強さに一途でいられる。
そうやって目を背け続けることは弱さかもしれなくても。

シャルが、ヨークシンでオークションが開催される時期にゲームが手に入る段取りだと教えてくれた。
それまで鍛えて待って、入手のために旅団に協力して、どうにかしてゲームをクリアする。
目標があって、予定があって、手近なすべきことがある。
そうやって彼方はこのたった一人の異世界で自分を守った。


『水溜りの海から抜け出せずにいた 凍りついた世界の中 僕を待つ 君の元へ』


そして、また無意識のうちにその歌をうたっていた。
聴いたことのない歌を、まるで何かにとり憑かれたかのように、紡ぐ。
はっとするほど繊細で安定した歌声だった。







『水溜りの海から抜け出せずにいた
 太陽の無い世界から
 僕を照らす 君の元へ 僕を待つ 君の元へ』


「遥、今日のライブもよかったぞ」
「お前ラストの曲……"Deep aqua"ほんと好きだよな」
「あぁ、なんか落ち着くんだよ」

"Deep aqua"は遥が中学の文化祭で披露するために作った曲だ。
拙いながらも彼方を想って作った曲だから、歌っている間は彼女を想える。
プロとして披露するには些か未熟だが、たびたびアレンジを加えているし、
ファンには初心を忘れないという意味合いだと解釈されている。
この曲を歌うのは遥の我が儘だが、ことさら感情が入るせいか、聴き心地は抜群らしい。

中学卒業を待たれてメジャーデビューした遥は、
現在通信制の高校に通っているだけなので、生徒として参加したのはあれが最後の文化祭だった。
想い主が聴くことはついになかったけど、だからこそ、届くまで歌い続ける。

「お疲れ様!」

リーダーの妹が飲み物を差し入れに来た。
遥と同学年で、まるで運動部のマネージャーのような存在の子である。

「遥今日もかっこよかったよ! 惚れ直しちゃった!」
「あぁ、いつもありがと」

まっすぐに好意の込められた笑顔を、遥はさらりと受け流す。
彼女はむっと不満げな顔をした。
自らを磨くことも、他人を気遣うことも怠らない彼女は美人と言って差し支えない。
遥の隣に並んでお似合いだと報じられる。メンバーの覚えもいい。客観的な彼女の価値はわかるのに、遥にはどうにもくすんで見える。
世界がきらきらと輝いているのは歌っているときだけだ。

「ねえ、遥は今カノジョいないんだよね?」
「あぁ」
「私と付き合わない?」
「付き合わない」
「どうして?」
「どうしても」

遥は、今後自分が彼女を好きになることを想像できなかった。
親しくはなれるだろう。仕事はできるだろう。儀式もこなせるだろう。相手が恋愛感情をなくしてくれれば友人にもなれるかもしれない。
傍にいて、好きになってくれて、それを伝えてくれる相手を好きになることができたらきっと幸せだろうと思うことはできるのに、きっと恋人ごっこにしかならない。
恋い焦がれる気持ちを知っているから、それを抱いたまま、"違う"誰かを身代わりにはできない。
誰も彼方の代わりになんてなれない。
やっかいで風変わりな相手に惚れたものだ。

「ごめん」

失恋の悲しみに沈む乙女は、ふっと机に視線を落として、開かれた雑誌のインタビュー記事に顔を赤くする。
遥は知名度を利用し、天宮彼方と桃桜香恋を《神隠し》に遭って行方不明の同級生として、たびたびメディアを使って探している。
大きく取り上げられたのは最初だけだが、今でも何か情報があれば遥に伝わるだろう。

「なによっ!天宮さんなんて……
どこにいるのかわからない、生きているかどうかもわからないような人なのに!」

八つ当たりに似た激情を吐き出した、彼女は中学の同窓生でもある。
遠目に見ていても、ふたりはたしかに隣にいてお似合いだった。
絶対的に互いを信頼しているような、背中を預けあっているような。
バランスが取れていた、というか。
――それは同性同士に似た友情だと思っていた。

綺麗な人だったとは思う。
化粧をするでも爪を塗るのでもなく、粗野だが造形は整っていた。
つまり彼女の求める"美しさ"とはまったく方向の違う人だった。
『女性っぽくない』なんてことを、口汚く吐き捨てたくなかったのは小さなプライドだった。
その結果もっと酷いことを言ってしまったが、それもまた事実。


遥は一瞬少女を睨んだが、彼女が怯えるように息を呑むのを見ると、目を逸らした。
傷つけておいて、事実を言われて、怒る資格がないと思った。

彼方と香恋が消えてからもう二年になる。
得られた手がかりはない。
活動を通じて二人の意外な係累関係を知ったくらいだ。
特に桃桜香恋について遥はかなり印象を書き換えることになった。

――馬鹿らしいことを承知で言えば、
さらに"二人が水見式を行ったらしいということ"があるが、それは誰にも話していない。


少女はもう何も喋る気がないらしい遥を見て悔しそうにしながらも、逃げるように楽屋を出て行った。
酷だとは思うが、どうしようもない。
告白のためふたりきりにされていたらしく、今度は遥ひとりきりになった。


水見式を行った……念を習得した人間がどうなるのか。
大ファンだと言い張って(嘘でもないが)原作者にも会ってそれとなく話したが、やはり扱いはフィクションだ。
それ以来ますます誰にも相談することがなくなった。
念はフィクションだとしても、気功のようなものが念として実ることはないだろうか。
部外者なので詳しくは教えてもらえなかったが、彼方の極めていた武道はたしかにそういうものを取り入れているらしい。

とにかく、規格外の彼方がどうにかして念を発現させたとする。
それが規格外ゆえに神隠しに遭ったのだとする。
"いなくなった"のなら"どこかにいる"のか? "どこにいる"のか? "帰って来られる"のか?
それを知るためには念を習得してみるしかないと思うのだが、もちろん簡単ではない。
漫画を信じて馬鹿正直に瞑想してみたりもしているが、今のところ効果はない。

静寂はかえって気が散るような気がする。
歌っているときのほうが心は澄んでいるかもしれない。
こうやって考え事をしながらも口ずさんでしまうくらいなのだから。

――遥の歌声が響くのに呼応して、
手元のペットボトルの飲料はほんのわずかに細やかな沈殿物としての濁りを増していたが、まだ、彼は気づかない。


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