28.打算 -- 確約が欲しいから

 二次試験終了後、ネテロとのボールの奪い合いを一足先に抜けて、キルアは飛行船内を歩いていた。高ぶった気持ちは廊下に屍を作り、シャワー室に向かうところだった。

「キルア君!」

 ふいに呼ばれた、それは聞きなれた、そしてここにいるはずのない少女の声だった。振り向くと、多少想定の外見とは違うけれど、"彼女"がいた。

「……香恋?」
「うん!」

 家出した実家に居候しているはずの、数週間前に約束を交わして別れを告げた少女が、そこにいた。変装だろうか、眼鏡に帽子、髪型も目の色と髪色も、心成しか気配まで違う。

「キルア君も試験受けてたんだね! 嬉しいっ、香恋は試験のスタッフなの」
「あぁ、お前ハンターだから……」

 『いつか、絶対に迎えにいく』と誓った手前、拍子抜けした。
 華奢で、決してハンターには見えないというのに、香恋はシングルハンターの称号まで持っている。受験生というよりも試験官側であるという隔たりに焦りを感じた。まずはこの試験に合格しなくては と思う。

「その変装は?」
「香恋、結構有名人だから」

 あぁ と納得した。『除霊師』という職業はキルアには理解できない世界だが、香恋が高額な懸賞金をかけられるほどの人材だとは知っている。危険な芽はたびたびゾルディックが摘んでいるのだが……。
一つの才能に秀でているからこそゾルディックにも気に入られたのだろう。殺し屋についた悪霊を払う というのは、縁起担ぎ程度には意義があるのかもしれない。

「試験会場ではあんまり話せないと思うけど、応援してるね!」
「……試験が終わったらちゃんと会えるか?」
「うん。待ってる」

 謝らなくてはいけないことがある。
 檻を抜け出したくて、レールの敷かれていない道を歩いてみたくて、香恋さえも残して家を出た。試験が終わって、一つでも自分の力で得たものができたら、ちゃんと向き合えるだろうか。

*
*
*

 いつもより濃いめのメイク、太めのフレームの眼鏡、いざというときは目元まで隠れる帽子、カラーコンタクト、ウィッグ、コロン。纏の仕方や歩き方まで変えて、別人になりきる。
 変装の本当の理由は、イルミの目を欺くためというのが第一だ。
 キルアがハンター試験を受けて、その試験会場にいることは『偶然』。ギタラクルに扮しているのがイルミだということは『知りませんでした』。という建前で押し通すつもりだ。
 誤魔化せるとは思っていない。無茶をしても、何を差し置いても、香恋はキルアを追いかけなければならないと感じていた。ハンター試験を受けて、外の世界を知れば、キルアは変わってしまう。そのときに傍にいなければ、きっと忘れ去られてしまう。愛した人が、この手から零れ落ちることのないように 繋がりが途切れないように ときにはみっともなく執着することも必要だ。

 仕事の内容は、主に雑用。舞台裏を駆け回り、女性受験生の誘導や監視なども引き受けた。

*
*
*

 最終試験 キルア vs ギタラクル戦では、ギタラクルが変装したキルアの兄、イルミであるということが明かされた。
 イルミの言葉に追い詰められ、キルアは我を失った。試合後、クラピカやレオリオが何を言っても聞こえないようだ。顔を真っ青にしてブツブツと何かを呟いている。

「ちょっとすみません」

 鈴の鳴るような声に振り返ると、黒服のスタッフが、クラピカとレオリオに場を譲るよう促す。試験官の中では珍しい女性のスタッフ――というか、少女だ。
 キルアの様子を見た協会側が対応してくれるのだろうかと思い、二人は退く。キルアのこの状態を第三者がどうにかできるとは思わなかったが、藁にもすがりたかった。
 試験官なのだからハンターなのだろうが、少女は幼いといっていいほど若い。明らかにクラピカよりも年下だ。ゴンやキルアのような例があるのだから侮っていけないことはわかっているが、
 仮に彼女が同じ受験生だったならば、何かの間違いだと思うだろうし、親切のつもりで早々に辞退することを勧めてしまうだろう。ハンターにしては信じられないくらい華奢で可憐だ。正直、一般人にしか見えない。
 やはり人は見かけによらないと、これからハンターの道を歩むクラピカは思う。
 治療や診断を想定して見ていると、彼女はキルアに近づくやいなや、首に腕を絡めるようにしてぎゅっと抱きついた。
 周囲の空気が凍りつく。

「キルア君。キルア君、キルア君!」

 彼女はキルアの耳元で名前を呼びかける。聞いているほうが恥ずかしくなるような甘い声だった。
 ――香恋はキルアの頭を包み込むような範囲で"円"をする。『静かな海(サイレント・シー)』という除念の力で、イルミの操作の針を消滅させる。
 呼び方からして、知り合いかと クラピカは判断する。それにしてもこの方法はどうなのかと思っていたとき、はっとキルアが表情に生気が宿った。
 己を抱きしめて名前を呼びかけている少女を見る。

「……香恋?」
「うん!」

 状況に戸惑いつつ、自然な動作で一度抱きしめ返してからそっと離れ、キルアはきょろきょろと周囲を見やる。
 説明を求められても、まず説明してほしいというのが周囲の気持ちだった。

「試験は?」
「キルア君とイルミさんの試合が終わって、今は」
「おいキルア! お前なんて羨まし……じゃなくて、誰なんだ、その子は」
「本音が出てるぞ、レオリオ」
「あぁ、香恋は……」

キルアが紹介しようとすると、無機質な声がした。

「なんのつもり? 香恋」
「兄、貴っ」

 キルアは幼い頃から凍みつき、先ほどの試合で骨まで冷えた恐怖を再び顔に現した。
 名指しされた香恋は、すらすらと答えた。

「さっきの試合中は試験官として公平に見守ったんですが、
試験が終わってからはいてもたってもいられなくなってしまって」
「余計なことしないでくれる」
「すみません」
「キル」

 香恋から向き直り、イルミはキルアの額に手を伸ばした。キルアは動くなと言われた先ほどの記憶と相俟って動けない。
 イルミが怒るといつも感じるあの嫌な威圧感におされ……しかし、それはすぐに和らいだ。
 不審に思っても、イルミがキルアを許した様子はない。では何が起こったのか、と考える前にイルミが言い放った。

「またぶっ倒れるよ?」
「これくらいなら、大丈夫です」

 イルミに対して香恋が答える。会話の意図は、キルアにはわからない。
 圧迫感が消えたためか、クラピカとレオリオはそれぞれ武器を構える。

(やめろ、殺されるぞ)

 キルアは焦るが、どうすることもできない。彼らがイルミに向かっていこうとしたら、その前に意識を奪って気絶させなければ と咄嗟に考える。

「それは裏切り? 恩を仇で返すの?」
「そんなつもりはありません。試験場にいたのはお互い『偶然』でしたし、香恋はキルア君の試験に手出ししていません。でも、辛そうな姿を見たら、"香恋"が"キルア君"を心配したり味方するのは当然です」
「だとしてもキルはまだ未熟だし、俺と親父の庇護下にある。うちの方針を邪魔するならお前はふさわしくない」

 張り裂けそうなほど警戒するキルアの額に、なお指先を近づけようといるイルミ。
 香恋はキルアを庇うようにイルミの前に立って、はっきりと言った。

「"それ"は卑怯です」
「だから何? 俺と戦う気? "あれ"が俺に効かないのはわかってる?」
「わかってます……」

 その場で、会話の内容を理解しているのはイルミと香恋だけだった。


 ――試験中に打ち込まれた念の呪縛は香恋によって除念されたため、イルミは再びキルアに楔を打ち込もうとしており、香恋はそれを防ごうとしている。『静かな海(サイレントシー)』という除念の能力を球状に広げて。
 香恋は念を覚えていない相手をオーラで威圧するのも、発で操作するのも、ましてやそれが自分の意思であるかのように錯覚させるのも、卑怯だと思う。
 イルミのことが怖くないはずがない。実力的に敵うはずがないと思っているし、足も震えて、今すぐ逃げ出したい。
 けれど、これは自らの価値を決める戦いだ と香恋は思う。
 何より、先ほどのキルアの状態を間近で見て、平常心でいられるわけがなかった。

 最大の問題は、香恋の戦闘手段の決め手は、念で相手の動きを止めその隙に神経毒を打つことだが、イルミにはその毒がほとんど効かないということだった。
 そもそも、イルミほどの実力者の動きは、『神の吐息(ゴッドブレス)』を以ってしても2秒も止めていられない。

「じゃあ無理だね。お前は敵わないとわかって向かってくるほど馬鹿じゃない。さっさと退いて」

 向けられた殺気に香恋は怖気を震う。いつでも殺せると、殺されるというイメージが喉元に迫る。
 現在『静かな海(サイレント・シー)』の範囲内にいる、イルミ・キルア・クラピカ・レオリオの四人のオーラは剥奪し、香恋だけが円をしている状態なのだが、絶状態のイルミを、オーラで威圧できる気も ましてや倒せる気も全くしなかった。
 相手は殺しのプロである。香恋が念を覚えていないキルアに敵う気がしないように、オーラの有無にかかわらない領域がある。
 『神の息吹(ゴッドブレス)』の力を借りて2秒を止めればどうにか一矢報いることくらいはできるだろう。だが、その後は? 逃げられるのか?
 香恋は強化系ではない。一撃でイルミを無効化するのは無理だ。身体能力が違いすぎる。イルミがその気になれば瞬きの間に殺される。
 それでも、せめて少しでも動きやすいようにと、円の範囲を縮小し、クラピカとレオリオを覆うのに当てていたオーラを節約する。
 キルアの家出問題は、将来的には丸く収まるのだと、わかっていた。今ここで命をかける必要はないと。それでも、香恋は今此処で生きているのだ。好きな人が苦しんでいるのを見過ごせるはずがない。感情的にも、打算的にも。

「あんまりふざけてると"殺す"よ?」
「っ……!」

 イルミは、ここで香恋を殺すのは少し惜しいと思った。貴重な能力だし、両親や祖父も気に入っている。イルミ自身も、援助を了承し屋敷に住まわせることが不快でない程度には気に入っている。
 しかし、なまじ除念のせいで香恋を操って言うことを聞かせるという選択肢がないために、残された強硬手段は殺害しかなかったのだ。キルアに悪影響ならば、それもやむなしと思っていた。

 そのとき、ずっと黙っていたキルアの姿が消えた……ように見えたのはクラピカとレオリオだ。
 香恋はかろうじて、自分の前に出てイルミに殴りかかるキルア・そしてそれに反応するイルミを瞬間的に視界に捉えた。不幸なことに、イルミのほうが速い。
――今だ。
 香恋は、原作と違う キルアの変化に賭けることにした。
 守りたくて、護ってほしくて、イルミに対して『神の息吹(ゴッド・ブレス)』を発動させる。一瞬間イルミの動きを止めるが、キルアの動きは止めない。
 ドゴォッ!!と人間を殴ったとは思えない音がする。互いに絶状態のキルアとイルミでは、純粋な筋力が十分威力に反映された。16トンの扉を動かす力をまともにくらっては、イルミとて無傷ではすまないだろう。
 あれだけ骨格を自由に変えられるのだから、骨に異常は残らない……と、信じたい。
 まさかここまで綺麗に殴れるとは思っていなかったので、殴ったキルアのほうが驚いている。だが、意を決して宣言する。

「香恋にもゴンにも手を出すな!」

 ビリビリとキルアの殺気が伝わってくる。イルミも立ち上がって濃密な殺気を放つ。気がおかしくなりそうだ。この場にいるのが辛い。だが、『静かな海(サイレント・シー)』を解くわけにはいかない。

「俺と戦うの? キル。俺はもう合格したから、ゴンを殺しにいけるよ」
「その前に俺が、兄貴を、殺すっ!」
「ふうん……」

 さっきと逆転して香恋を庇うキルアの額には冷や汗が滲んでいるが、覚悟の込められた殺気は重い。さすが、ゾルディック家で才能を期待された跡取り息子というところだろうか。香恋はイルミの感情の読めない黒い瞳に吸い込まれそうだ と思った。

「キルがこんなに反抗するようになるなんて……やっぱり、殺し屋に友達はいらないなぁ。
 婚約者も、早かったかな?」
「……婚約者?」

 想定外の単語に、思わず食いついたのはレオリオだった。イルミはあっさりと答える。

「香恋はうちの親が決めたキルの婚約者だから。候補だけど」

 一瞬の沈黙。そしてシリアスな空気をぶち壊して、状況を見守っていたハンゾーと、レオリオが叫ぶ。

「婚約者ぁあああ!?」
「キルアっ! 聞いてねぇぞ!!」
「言ってねぇもん、いちいち」
「おま……その年で、だと!?」

 ショック予想外すぎたのか、レオリオは口をあんぐりと開けて間抜け面だ。
 クラピカは、将来の約束を親が勝手に決めるというのもどうかと思う一方で、先ほどの二人を見ていれば無理矢理でないことはわかる。
 婚約者だからこそ、家に逆らってキルアの味方につくことがある程度許容されたのだろう。

「それでどうするの、キル」

 問いただされ、キルアは親友・婚約者・自分の安全を確保できる道を模索する。
 何かを犠牲にしなければいけなかったから、"自由"を差し出した。年貢の納め時だ。

「イルミは、俺を連れ戻したいんだろ。さっきの試合は俺の負けだし、残りの試験は辞退して家に帰るよ。
それで、二人には手を出すな」
「キルア!試験は残り少しだろ!?てめぇここまで来て諦めるのか」
「レオリオ! 気持ちはわかるが……」

 引き止めてくれることは少し嬉しかったが、すでに見切りはつけていた。

「別にそこまでライセンスが欲しかったわけじゃない。暇つぶしに受けただけだ」

 それに香恋に並ぶ資格は持っていて損はないと思ったのだが、受けてみれば「大したことない」と思うだけだった。
 代弁するように、「キルア君ならいつ受けても受かるよ」と香恋が囁いた。

「今後許可がいるっつーなら、親父と交渉する」
「うーん、香恋がいるにしても、まぁ、ここまで言えたのは予想外かな?
親父がどう判断するかは知らないけど、自分の意思で帰るっていうならそれでいいか」

 イルミが妥協したので、キルアはそれに従う。様子を見守っていた試験官たちに棄権を申し立て、受理された。
 そうして、彼にとってのハンター試験は幕を閉じた。

 キルアは、イルミの監視を受けて帰るのはごめんだったので、合格者講習会の前にさっさと帰路についた。イルミはどちらにせよ仕事が控えていたので、引きとめなかった。
 ゴンに挨拶はできないけど、"楽しかった"と伝言を残して。
 香恋はキルアと待ち合わせをしたかったが、イルミの目を盗む暇がなく、結局そのまま試験スタッフの業務に戻り、合格者講習会にゴンが乱入する場面も見届けていた。

「香恋さん」

 講習会後、クラピカ・レオリオ・ゴンの三人が香恋に話しかけてきて、自己紹介をした。
 タメ口でかまわないと言い、ククルーマウンテンへの行き方にも答えた。
「さっきキルアを正気づかせたのは何か特別なことをしたのか?」というクラピカの問いに、「愛の力ですよー」だなんてふざけてから、ツボ押しみたいなものだと説明した。
 念を覚えていない彼らには除念は説明できないし、この場合除霊のつじつまが合わない。

 そして、共にククルーマウンテンに向かうことになった。
 さぁ、香恋も、けじめをつけなくてはいけない。
 自由ではなく、千切れない鎖を得るために。


 top 


- ナノ -