27.家出 -- 自由と愛の障害について

 仕事が終わった頃にケータイが鳴った。
 公衆電話からの通話だったので、誰だろう、と香恋は首を傾げる。プライベート用の番号を知っている人物は限られているのだ。

「はい、香恋です」
「オレだけど……」

 掠れて緊張した声に、嫌な予感がした。

「キルアくん? どうしたの」
「悪い。明後日出かける約束、ダメになった」
「お仕事?」
「さっき家出してきた。」
「……そっか」

 短く了解すると、その反応の薄さに電話の向こうでキルアがかすかに驚いたようだった。
 たった一言から香恋は全てを察する。本で読んだ知識だけじゃなく、香恋はたびたびキルアから家への不満を聞いていた。おそらくシルバもイルミも仕事で家を空けている今日が絶好の機会だったのだろう。

「香恋にはちゃんと伝えとこうと思って」
「今どこにいるの?」
「空港」
「これからどこに行くの?」
「言えねー。悪いけど」
「そんな」
「お前を信じてないわけじゃない。うちにいたら『言わされる』かも知れねーだろ」

 尋問や拷問されるという可能性がないわけではない。気に入られている自覚はあるが、優先順位は跡取り息子と比べるまでもない。黙っていればいいというものでもない。本気を出されれば、あの家に嘘は通用しない。

「じゃあ香恋も一緒に行く」
「なんでだよ」
「共犯になりたいの。ダメ?」

 説得モードに入った香恋は、正直焦っていた。てっきり連れて行ってくれるものだと信じていたのだ。だってそれくらい仲良くなって、絆を得たという自覚があったから。だって、香恋はキルアの――

「香恋がうちを出て行く理由はないだろ。仕事も上手くいってるみたいだし、うちの家族だって認めてる」

 将来のレールを敷かれ、自由を制限されたキルアと違って、香恋は彼方と共に一度出たゾルディック家の門を自らくぐり直してきた。
 キルアの不満を聞くことはあっても、香恋が不満を口にしたことはなかった。自ら望んで得た今の状態には満足しているはずだ。

「だって、キルア君と一緒に居たいの」

 ゾルディックは今の香恋にとっての『居場所』であることは間違いないが、そもそもその場所を選んだのはキルアがいたからでもあった。
 どんな世界でも、たった一人自分を選んでくれる人がいれば、生きる理由に足りる。そういう人を見つけて、定めることが香恋の欲しいものだった。そこに価値を見出すことができれば、どこでもいいのだ。香恋は幸せになりたいだけだ。今も、昔も。

「っ、仕事はどうするんだよ」

 除念師(キルアにとっては除霊師)として活躍している香恋だが、後ろ盾がなければここまで成功することはなかった。契約しているマフィアその他諸々のコネクションの大元はゾルディックだ。一人で生きていけないと思ったから頼った名家。いまや決して切り離すことはできない。

「休業するから大丈夫」

 本当は、いずれ来るこの日のために仕事の受注を抑えてあったのだが、それは内緒だ。
 そもそもゾルディックに除念の腕を買われはしたが、除念師としての報酬を期待されていたわけではない。家賃を払って部屋を借りて、賄いを出してもらって、口利きをしてもらった。もちろんそれは大恩だが、契約内容としては、香恋が屋敷の外で何をしようと、ゾルディックが口を出す根拠はない。

 キルアの家出を止めるのが裏切らないという選択肢ならば、これは立派な裏切りだと思う。
 けれど、止められないなら、何もしないよりは香恋がキルアの傍にいたほうが安心 という言い訳もできる。
 お金に困らないし、何かあれば報告できるし、念能力者がいても対抗できる。ほらこんなにもお得なのに。

「正直、オレはあんまり先のこと考えてないし、保証もできない」
「それでもいいよ。選んだのは香恋だから、どうなってもキルア君のせいじゃない」

 香恋は必死だった。取り残されるのは嫌だ。
 キルアは迷っていた。今の居場所に馴染むまで香恋がどれだけ努力していたか知っていた。先行き不安の未来に連れ出すことなんてできない。大切だからこそ傷つけたくないのだ。
 実家に捕まっても、キルアは殺されることはないだろうが、香恋はありうる。
 それに、自由を求めて家出するのに、再び枷を増やすのか と思う自分もいる。何もかも白紙にして世界を見てみたかった。
 香恋のことは大切だし、一緒にいれば楽しいだろう。けれど、そのために必要な自分のものを何一つ持っていないと思う。

「やっぱりダメだ。香恋は巻き込めない」

 その言葉を、まるで死刑宣告のように香恋は受け止めた。頭の奥が冷たく鈍る。急に寒くなったように感じたのは、震えていたからだ。喉が渇いたと感じたのは、水分が瞳に集まったからだろうか。涙はじわりと滲んだだけで、こぼれることはなかった。

「なんで!?」

 香恋が声を荒げたことにキルアは驚いた。本人も動揺で声の大きさが調整できなかったらしく、調子を改めた。

「香恋は、キルア君がいれば全部棄てられるよ」
「気持ちは嬉しいけど――」

 自分なりに彼女の幸せを願ったつもりだったのに上手く伝わっていないらしい。どうにか誤解を解こうと言葉を選んでいると、悲痛な声が電話を伝わった。

「キルア君も香恋を選んではくれないの?」

 思わず聞いてしまった、と香恋は思った。それはいつからか常に香恋の地中奥深くに根付いていた意識だった。"香恋は大切な人の『一番』にはなれないのか"
 彼方は遥を選んだ。誰も香恋を選んでくれないのだろうか。可愛がられて、好かれて、ちやほやされることに慣れて。誰かを選んで、傍にいて、相手の望む言葉と笑顔を捧げて、心からの愛を語って。それでも、それなのに。

 選んでくれないなら、いっそ重いと言って、迷惑だと言って、捨ててくれればいいのだ。そうしたら絶望して絶望して、最後にはまた新しい道を探せるかもしれない。

 わかってる。これは恋の真似をした子供の所有欲。それでも、誰か、騙されてくれないだろうか。香恋が望んで香恋のものになってくれないだろうか。

「いつか、絶対に迎えにいくから」

 キルアははっきりと決意を語った。予想外の答えに、香恋はきょとんとする。

「今はオレも自分が何したいのかわかんねーし、どうなるのかもわかんねーけど、
そのうちちゃんと金稼げるようになったら迎えに、っていうか攫いにいくから、それまでうちにいろよ」

 それってなんてプロポーズ と、口に出さなかっただけいいだろう。一応確認してみる。

「お金なら香恋が……」
「それじゃカッコつかねーだろうが」
「あ、そっか」
「お前、たしかハンターの資格も持ってんだよなぁ。
……まぁいいや。そういうわけだから。別に今うちが居心地悪いとかじゃないんだろ?」
「うん」

「じゃあ待っててよ」
「――うん」

 嬉しくて、間の抜けた返事と肯定しか返せなかった。どうしよう、惚れ直す。
 円満にまとまって、キルアも安心したのか、飛行船の時間があるからそろそろ、と言って通話を切った。『そのうちまた連絡する』という言葉を残して。

「よかったですね」

 ほうけていた香恋は護衛の一人に声をかけられてはっとする。今までの会話はすべて聴かれていたのだ。途中までは意識していたことだったが、取り乱した姿を見られたのは失態だった。
 それでも、口の堅さは信用しているし、からかってくるような性格でもないからいいとする。彼らは14歳の少女を微笑ましく見ているだけだ。

「よかったけど、よくないよ。香恋にも予定とか、楽しみにしていたこととかあるし」

 原作を信用するなら、キルアが身を落ち着かせるのはいつになるだろう。そんなの遅い。その間に香恋が必要なくなるかもしれない。何もかも手遅れになるかもしれない。

「また電話するから、静かにしててね」

 キルアの意志はありがたく受け取った上で、香恋にも考えがある。


「もしもし、ネテロ会長ですか? 除念師の香恋です。いつもお世話になっています。先日もご依頼どうもありがとうございました。
あのっ、次のハンター試験で、何かお手伝いをさせていただけたらと思いまして。
はい、ボランティアで大丈夫です。もともと今の香恋に総合試験官は無理ですから、スタッフに志願したいんです。雑用とか、人手が必要なこともあると思うので。
実はですね、知り合いが試験を受けるみたいなので、様子を見守りたいんです。
手出しなんてしませんよぅ。隙があれば挨拶くらいしたいなーとは思うんですが。
――やっぱり難しいですか? あ、そうそう、ついでにお知らせになるんですが、これからしばらく除念業をお休みしようと思っているんです。今受注している仕事と、プライベートの特別な仕事だけってことで。
さぁ、どうでしょう? 協会からの仕事はプライベートとは言えませんよねぇ……。
――本当ですか!? 嬉しいです! ありがとうございます。わかりました。失礼します!」


「というわけで、香恋は次のハンター試験のスタッフを頼まれたから、しばらく除念師のお仕事はお休みにします」
「わかりました。何かあったら呼んでくださいね」
「"頼まれた"というより"頼ませた"に見えましたが?」
「人聞きの悪いこと言っちゃダメ。前から相談しているとおり、休業手当てはつけるからね」

 ヨークシン編が終わった後、幻影旅団に除念を依頼されては困るので、その前に雲隠れする必要があると認識していた。キルアと一緒に行くにしても休業する算段がつけてあった。

「それにしても、香恋様が家出少年を追いかけるためにそこまでするなんて意外です」
「そうかな? キルア君が大好きっていつも言ってるじゃない」
「どちらかといえば安定志向かと思っていたので」

 二年の付き合いの彼らは、実は彼方よりも香恋の本質を把握していた。気心の知れた仲だ。

「そうだね。『いつまでも待ってる』なんて健気なことができればよかったんだけど、生憎、香恋にもそんなに余裕がないから」

 生まれ育った世界から切り離されて、親愛なる親友に突き放すように別れを告げて、それで何も得られなかったなんて笑えない。

「頑張りすぎないでくださいね」
「頑張ってなんかいないよ。でも、ありがとう」


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