この世界で彼方と同じだけしか時を過ごしていない香恋にとってのあてと言えば、ゾルディックしかなかった。
幸い、ハンター試験合格の報告が訪問の名目になった。
執事たちにも顔が知られているので、試しの門を開けられなくても、除念の能力を見せ付けるだけで屋敷に通ることが許された。今度は、客人として。
そこで、香恋はイルミに二度目の取引を持ちかけた。
「香恋に投資してくれませんか」と。
香恋は、自分が生きていくためには除念師になるしかないとわかっていた。
世界を飛び越えるときに変化したオーラの質は、そのために神様が与えてくれたのだと思う。
しかし、いくら聡くても、いくらハンターになったとはいえ、14歳の少女だ。裏の世界で一から商売を始める術など知らない。
念能力者を相手にする特殊な職業に、ひとりで就けるはずがなかった。
環境を整えてくれさえすれば、ゾルディックからの依頼は永久に無償で受けるし、毎月の売上金のいくらかを啓上してもいい。
そう言うと、イルミは、「俺は殺し屋だからそれ以外のことで儲けるつもりはない」と断ってから、知り合いだという裏にも表にも顔が利く有力なスポンサーを紹介してくれた。
そして『除霊師・香恋』が生まれたのである。
もちろん除念師なのだが、表ではそう名乗る。表にも仕事はあった。念を知らなくても、曰く付きの品物を所有する金持ちは案外多いのである。香恋は呪いであるオーラを祓うことで除霊とした。
『霊媒師』ではなくて『除霊師』である。という言い訳で、祓えさえすれば、死んだ人の霊が見えなかろうが声が聞こえなかろうが支障なかった。
除念は本来希少で高度な能力だが、香恋は平常時のオーラの性質を利用しているだけなので、特殊な制約と誓約が不要で、負担も少ない。
そのため、通常よりもかなり安いとされる価格を設定できた。ただし元手も労力もないに等しいので、香恋としてはぼろ儲けだ。
常連は多く、ハンター協会からも直々の依頼が頻繁に入る。大きな依頼ならば、出張もする。
その実力と成果が認められて、香恋は最短記録を作ってシングルハンターに昇進した。
楽な仕事だが、それに見合う代償を支払っている。
表でも裏でも有名な、除念師。
たったひとりで稼ぎ出す金は多くの一流企業も及ばないとされる。
その正体は、年端もいかない可憐な少女。ハンターと言われても、侮ってしまうのは致し方ない。
容易く手に入るんじゃないか? と思って、誰でも誘拐したくなるのだ。
手元に置いておきたくなるような容貌をしていることも原因の一つといえよう。
そんなわけで、『除霊師・香恋』には常にボディーガードがついていた。ホテルで依頼人と対面している間も、移動中も、仕事中はずっと。
一人で出かけるときなどは、目立たないように遠出した。
そしてそれ以外の時は、基本的にゾルディック家に下宿していた。
ハンター証があればホテルには無料で泊まれる。
しかし、女の子の一人暮らしもホテルへの宿泊も安全とはいえない。
除念師として名を馳せている香恋ならなおさらである。
その点、ゾルディックの敷地内なら安全安心である上に、部屋も有り余っている。
香恋としても、 家賃と食費と称してお礼金を多めに渡せるのでよかった。
ハンターとなり、世界有数の除念師としてその実力を認められた香恋は、ゾルディック家にも快く受け入れられた。
特殊で使い勝手のいい能力を身近に置いておくのは都合が良かったのだ。
が、もちろんそれだけではない。
利益だけを考えるならもっとゾルディック家に都合のいい方法があったはずだ。
つまり、香恋は気に入られていたのだ。
社会の暗黒に染まったその家で、曇りのない笑顔を作り続ける。
自覚無くとも、誰もが、光が差したような錯覚を抱く。
それは万人に愛されるという、磨き上げられた才能で、元の世界で香恋が大切にしてきたものだ。
キキョウは実の娘のように話しかけ、趣味のドレスを用意した。香恋は喜んで着て見せた。ゆえに屋敷内では西洋人形のような出で立ちをしている。
念の話さえしなければ、とキルアなどとも接触が許される。これは二人ともにとって嬉しいことだった。
さらに、『客』となったとたん、使用人の態度が一変した。今では香恋さま呼ばわりである。
完全に人権が確保されているのであった。
売れっ子の香恋は、いつもゾルディック家にいるというわけではない。遠出して長く留守にすることの方が多かった。
けれど、世界各地のホテルを転々とする日々でも、『帰る場所が決まっている』というのはそれだけで何よりも価値があった。
この世界で微笑む価値だ。
さて、仕事のとき、香恋は、いつも似たような奇妙な衣装を着て、デタラメな魔方陣の上に依頼人を座らせて、発を行う。
親しい相手ならそんな面倒なことはしないが、基本的に依頼人と雖も、能力を正確にひけらかすことは憚られた。
だから、あえてわざわざいろんな制約と誓約を守っているように見せかけるのである。
あまりにも簡単に除念してしまってはありがたみが伝わらないということもある。
これはそんなある日の仕事風景。
部屋には依頼人と香恋、部屋の隅には一番信頼の置ける二人の護衛。
香恋が選び、いつもククルーマウンテンの麓まで迎えに来てくれる二人である。
仕事を始める前には、一応香恋が除念をして、誰かに操られたり成り代わっていないことを確認する。
香恋はいつものように長ったらしい呪文を唱えて、散々もったいぶったあと、『静かな海(サイレント・シー)』を発動させた。
香恋のオーラが依頼人を包み、絶状態にして、同時に依頼人に憑いていた第三者のオーラも消え失せる。
「はい、結構です」
香恋が声を掛けると、その依頼人は自分の無事を確認して安堵した。という演技をした。
だから、それをすぐに打ち消して、嫌な笑みを浮かべた。そして、
「悪く思うなよ!」
と叫んで、金属製の大きな網のようなものを具現化して香恋に飛ばした。少女一人を簡単に捕らえてしまうような、大きな網だ。
具現化系の能力であるそれは、ピストルでもナイフでも壊れず、間違いなく標的となったものを捕らえる。
部屋の隅に立っている護衛の二人が対応するよりも、おそらく網が香恋に届く方が早い。人質を取れれば、此処から逃げるのは容易いだろう。すべてが手に入る。
だが、その、香恋が最も気が置けない護衛の二人は、主の危機に、ぴくりとも動かなかった。そればかりか、苦笑するほどの余裕ぶり。
実際、よくあることなのだ。
料金は前払いなので、こんなことがあっても損をしないようにできている。というか、こういうトラブルが料金に含まれているといっても過言ではない。
香恋は、身動きせずにその網が刻一刻と自分に近づくのをじっと見ていた。
そして、あと10cmというところで、オーラで出来た強靭な網は、香恋のオーラに触れると、消滅してしまった。
まるで香恋の視線に焼かれたかのように。
「なっ…!」
動揺する男を、軽く笑って、少女は告げる。
「んもう、香恋は除念師ですよ? その能力を考れば、念の攻撃が通じないことくらい予測できるでしょう?」
「……くそっ!」
男は悪態をついた。
たしかにこの男は愚かで、考えればわかることだったのではと思うかもしれないが、誤解させるように仕向けていたのは香恋である。
さっきは、男の除念をするのに20分もかけていた。制約と誓約に縛られているように見せかけていたのだ。
世界中の除念師の性質を見てもそうだ。必要条件が多すぎる。
まさかそんなにも自由自在に使える、実践向けの能力だとは思わなかったのだった。
仕方なく、男は作戦変更といわんばかりに、ナイフを取り出して、直接香恋に向かってきた。
絶対的な体格差がある。念を抜きにすれば、実力差は歴然のように思われた。
ハンターと言われても、香恋に戦闘ができるとは到底思えなかったのだ。
しかし、やっぱり護衛の二人は動かない。むしろ男に哀れみの視線を送っていた。
この二人は本当に護衛なのだろうか? と思ってしまうくらいに、手を出さない。
実際は、すでに発動の準備が整っているのだが。
向かってくる男を見て、香恋はただため息を吐いた。
過去に、信じられないくらい鍛え抜かれた彼方と行動を共にし、その実家である道場に何度も遊びに行っては、やはり鍛えられた門下生を目の当たりにした。
そして現在は天下の暗殺一家に下宿している香恋としては、その男の動きは大変物足りなく感じられた。
男は、香恋に触れるやっぱり10cmほど手前で、突如としてその動きを止めて硬直した。
香恋のオーラに触れた部分のオーラは消滅している。
しかし、それは除念だけではなかった。オーラを除いた生身の身体でさえ、動けない。
物理的な全てを通さない壁のようなものがそこにあるかのように感じられた。
「あなたのオーラを消滅させても、香恋のオーラは変わらない。自由に能力を発動できます。除念だけだと思ったら大間違いですよ」
『静かな海(サイレント・シー)』は、オーラの性質を利用しただけのただの"円"だ。"発"の能力ではない。
正確な香恋の発の性質は、操作系よりの特質系。だから、操作系の能力も使えるのである。
『神の吐息(ゴッド・ブレス)』
オーラに触れたものを数秒間静止させる能力。
相手の力量によって、1秒間〜10秒間と変化する。
制限時間を越えると硬直は解け、再び同じものを静止させるには一度100メートル以上距離を置く必要がある。
数秒といえば、吐息を吹きかけるような時間だが、戦闘中には絶対的な時間である。
当然消耗するので多用できるわけではないが、それでも十分だった。
香恋は手馴れた手つきで、衣装の内側から掌サイズの玩具の銃のようなものを取り出して、男の首を撃った。
音もなく飛び出したのは、細い針のようなもの。男は、チクリという一瞬の痛みを感じた。ただそれだけ。
それから香恋が後ろに下がると、男の硬直が解けた。
なにをしたんだ? と、男が自分の首に触れつつ、再び香恋を見て、地面に崩れ落ちた。
「なん、だ……?」
「ゾルディック家御用達の神経毒ですよ。即効性の」
笑顔のまま語ったが、男はそこにひんやりと冷たいものを感じた。あれは無力な少女などではない。もっと別の側面を孕んでいるのだ。
これからどうなるのだろう? 次に目覚めたとき、自分はどうなっているのだろうか。
全身が無意味に震えることしかできない。だんだんと視界が白くなる。そしてホワイトアウトした。
香恋は生きていくために、自分の能力を最大限に生かした職に就いた。
愛嬌を振りまいて居場所を確保した。
そして、自分の身を守る術の開発も怠らなかった。必要不可欠だったのだ。
もう彼方はいない。絶対的な安全などないのだから。
( どんな武器も彼方ちゃんの代わりにはならないけどね )
あるに越したことはないのだ。