地面に足を着いた拍子に少し捻ったらしい。鈍い痛みに顔を歪めるけれど、すぐに平気なふりをする。
いつのまにかそんな癖がついていた。
ふと、周囲が静かなことに気づいた。三人で一緒に落ちたはずなのに、部屋の中には自分ひとりしかいない。
誰もいないとわかった瞬間、心配されることを心配する必要がなくなって、足が痛み始めた。
「分かれちゃったのか」
呟いて、壁に文字を探す。壁に書かれていたのは『囚われの道』
君は暗い牢獄に囚われた。
出口で脱獄の手伝いをしてくれる勇者を待たなければ外には出られない。
まだ読みなれていないハンター文字を目で追って、香恋は考える。
たとえば、『出口で手伝い』ということは、自力で出口まではいかなければいけないということ。勇者なしでは出られないというリスクがあるなら、道中に困難は少ないかもしれないということ。
もしかしたら三人が落ちた道はリンクしていて、"勇者"は彼方かもしれないということ。それなら、彼方が"勇者"なら、必ずここから出られるだろうということ。"勇者"がシャルナークだとしても、幻影旅団の一員なら実力も期待できる。
壁の文字の下には手錠のような枷が置いてあった。囚人の証だ。香恋はそれを拾い上げて腕に装着した。するとカチャッという音がして、ロックがかかり、外れなくなる。
同時に部屋の扉が開いて、道が開けた。それに従って部屋を出ると、その瞬間に扉が閉まった。後戻りは出来ないらしい。先に続く道は、薄暗い螺旋状の階段。気味が悪くて、一瞬進むのが躊躇われる。けれど、ここでじっとしていても仕方がない。彼方はとても早く助けにきてくれてしまいそうだから、そのときに自分も出口にいなくてはいけない。
捻った足を引きずりながら、ゆっくりと階段を下り始めた。単調な道のりだ。
( もしかして、トリックタワーの標高分の階段を下りるのかな? )
そう考えると気が遠くなった。不可能だ。でも、進むしかない。
そのとき、背後でドガァッという大きな破壊音があった。ロックされた扉の方向からだ。つまり、先ほどいた部屋からだった。誰もいなかったはずなのに。得体の知れない恐怖で、思わず震えてしまった。けれど、どうしたのか確かめたくても、もう鍵が閉まってしまったから、やっぱり戻ることはできない。警戒だけを強めた。
それから、きっと二時間くらいが経過した。
相変わらず道のりは続いている。
階段を下りるだけでも、距離が距離なのでかなりの重労働だ。立ち止まる余裕もない。ひたすら自分の乱れた呼吸音と、足音がコツ、コツと不気味に響くのを聞いていた。無様にも、その足はガクガクと震えるし、嫌な汗で髪が張り付く。転ばないように壁に手を付く。冷たい。
この道が一人の道でよかった、と思った。香恋は常に『見られること』を意識して生きている。
( これくらい、彼方ちゃんならなんともないんだろうな )
ふと、目の前の壁に文字のようなものが見えたから、明かりを取り出して照らしてみる。
そこには、赤い文字で 『我、罪なくて死』 と書いてあった。
ここは牢獄。そんなものを見てしまったから、ホラーチックな雰囲気の中、余計なことを考えてしまいそうだった。
振り払って進むけれど、焦りだけが生まれた。
それから、さらに一時間ほど経った。
ついに足取りがおぼつかなくなり、それ以上進むことができないと判断して、香恋はようやく歩みを止めた。
階段に座り込んで、酷使した脚を軽く叩いてマッサージをした。溜息を吐く。絶をしながら目を閉じてみる。10分だけ休もう。
闇が沁みる。絶対的な静寂が懐かしかった。
社交的な性格は香恋の武器と言えよう。別の世界に来てしまっても、傍にいる誰かに笑顔で話しかけてきた。欲しい物を手に入れたくて、弱音を吐かなかった。無理やりでも笑みを作ることで、弱さを隠した。明るく振舞うことで、強くなった気でいた。人を安心させて、自分をも騙してきた。
今、香恋は自分の心の闇と向き合わされているのだとわかった。
なんとなく、彼方なら、呼べば飛んできてくれるような気がした。都合の良いスーパーヒーロー。
彼女が香恋のことを過剰に心配していることに香恋は気づいていた。強さが肉体的なものだと信じているから、香恋のことをひどく脆く感じるのだ。けれど、それこそが彼方の弱さであることも、香恋は知っていた。
知った上で、足りないものを補い合うのが役目だと信じている。甘やかされる。甘えてしまう。甘えてあげる。そんな関係。
円を限界まで広げればおそらく二人の居場所がわかるだろう。そうすれば安心感を得られる。でも、なんのために? 安心感を得てどうするというのだろう。塔の中のどの位置にいるかがわかったって、どうなるわけでもない。円をすれば疲れる。無意味なことはしたくない。これは一人の戦いだ。体が回復したらまた立ち上がって、自力で進むだけ。
それにしても、疲れた。
全身が錘をつけたように重く、立ち上がれる気がしなかった。
絶で身体を休めているものの、これから先の見えない道をひたすら下りていくのは精神的にもかなりきつい。
あとどれくらいで終わりがくる? どれくらいの体力がいる? 余計な計算をしたくなる。意味はないのに。
そろそろ10分経ってしまった。自分で決めた約束の時間。
でも、身体はまだ甘えてる。
どうやって立ち上がろう? と悩んだ結果、歌をくちずさんだ。
それは"歌姫"時代の遥の曲。
『 眠れぬ夜が少なくなった 朝が来るのを忘れたかった
それでも見知らぬ日々は訪れる 今までがそうだったように
すべての姿を 覚えたいと願うけど 貴方の涙も思い出せない
大切なものが溢れて、埋もれて それでもずっと愛していた 』
懐かしい。歌いながら、凛と澄んだ声を思い出していた。
香恋と遥は、彼方という共通の友人でつながっていただけの間柄だったけれど、心を震わせるようなあの歌声を尊敬していた。
学校中を魅了していただけでなく、学校外にも軽音楽部のファンは多かったのだ。
覚えている歌詞と旋律を口から零すと、中学時代の思い出も一緒に蘇ってくるような、曲だった。
けれど、愛しくはなかった。
香恋は慈しもうと努力した。その場所で咲き誇ろうと。
でも結局、あの世界の思い出というのは、この迷宮の闇に埋もれてしまうほど取るに足りないものだった。
楽しい映像は浮かんでくる。それは真実の虚構。彼方と一緒にいるときだ。
( 隠し事があるのに? )
思い出は事実以上に綺麗なはずだった。でも、戻りたいと思えなかった。
香恋は一曲歌い終わって、立ち上がった。
そしてまた一人、薄暗い階段を下り始める。
体力じゃなくて、プライドの問題だった。守られることにもプライドはある。
遥のように綺麗には歌えなかった。
そんな後悔をしてみる。でも必要ない。もう二度とこの歌を口ずさまないから。
彼方は知っているだろうか?
香恋がこんなふうに損得勘定で動く利己的な人間だということ。誰よりもエゴイストである自覚がある。
きっと知らない。だから笑ってくれる。
大きな矛盾を抱えながら生きてきた。少しだけ疲れていた。
常識外れの刺激に焦がれていた。出会ってしまった。
その続きは?
香恋は疲れを紛らわすために、唇で不変の微笑みを描いた。
( 大丈夫、大丈夫、大丈夫 )