香恋はご機嫌だった。
好みの服を着て、彼方にもモデルのようなメンズ服を着せて、一緒に歩いている。
午前中の罪悪感からか、彼方はアクセサリーショップにも付き合ってくれた。
洒落たカフェでは彼方がストレートティー、香恋はコーヒーとケーキを注文した。
彼方は荷物持ちの予定だったが、結局殆どの荷物を郵送してもらうことにしたのであまり役に立っていない。
「次はさっき通ったお店に入ってみようか」
「まだ買うのか?」
意気揚々の香恋とは反対に、慣れないことをした彼方には若干の疲労の色が見える。
それでも最大限付き合おうとしているのは、ひとえに香恋が大切だからだ。
「もちろん。あ、それともお金使いすぎかな?」
「いや金はありえないほど溜まったからいいけど、そんなに服買ってどうするんだ?」
「えー、必要だよ! "旅行じゃない"んだから」
ね? と可愛らしく笑う香恋に、彼方はなにか言い様のない違和感を覚えて、立ち止まった。
どうしたの? と聞かれても、答えられなかった。
( なんだ、何がおかしい? 『旅行じゃない』っていうのは、別に間違ってないのに )
この世界に来たことは予定外のことだったし、観光気分でもない。
事実は何も間違っていないのに、違和感がぬぐえなかった。
( そうだ。香恋の言い方は、まるで此処に長居することが確定しているみたいなんだ )
一つの結論を導き出したのに、彼方は新たな可能性に背筋を凍らせた。
まるで寸前のところで遅刻ギリギリの電車に乗り遅れたみたいだ。目の前を通過する何かに呆然と立ち尽くすことしかできない。
自分が当然だと考えていた根本を否定されたような恐怖に、さっき潤したはずの喉が渇く。
「香恋は、帰ることを考えてないのか? 向こうの世界が心配だとか」
少し掠れた声で問うと、香恋は彼方の意図に気付いて、んーと短く唸った。
「悲しいことに、香恋は向こうになんにも悔いがないんだよねえ」
それは、鈍器で頭を殴られるような衝撃だった。彼方は何か決定的な勘違いをしていたのだ。
自分が感じていることを、少なからず香恋も感じているだろうと。
それが当たり前だと思っていたのに、今、はっきりと二人を隔てる壁が見える。
最初からその違和感は存在していたのだ。出来るだけ気にしないようにしていただけで。
香恋はゾルディックにいたときも全く不安を口にしなかった。
そのとき、すでに心を決めていたのだ。
彼方は、香恋のことを何も知らないと思い知った。
なにを考え、何のために生きているのか。
急に香恋が遠い存在に思えた。
なんで、と思わず呟く。
それを聞き逃さなかった香恋は、戸惑い続ける彼方にこう告げる。
「いいことを教えてあげるね。
彼方ちゃんはね、中学入学前に一度香恋に会っているんだよ」
「は?」
「名乗りもしなかったから、絶対に思い出せないだろうけどね」
香恋は微笑んでいる。
すべてが本当だったとしても、どうして今このタイミングでそれを言うのか、理解できない彼方の反応をまるで予測していたかのように、不変の笑みで。
そして何事もなかったかのような声色で「いつか、答えを教えるね」とまとめた。
彼方はまだ沈黙し続けている。
今度は香恋が質問する番だった。
「彼方ちゃんは、帰りたい?」
勿論。と言おうとしたのに、答えは喉を通らなかった。
“帰りたい”
帰れば退屈な日々に溺れそうになるのに?
“帰りたくない”
そう言った香恋を非難しようとしたくせに?
緩やかな矛盾に巻き込まれていく。
気付けば、一途を気取りながら、多くのものに手を伸ばそうとしていた。ただの優柔不断な臆病者だ。
「いいんだよ。帰りたい、って言っても。
彼方ちゃんは遥くんが好きなんだから」
香恋は変わらない声色で語り続けた。
特に後半の、予想外の言葉に、彼方はすべての思考を止めて目を見開いた。
「は? や、ちょっと待て」
「待たないし、違わないよ。気付いてなかったわけじゃないでしょ?」
「気付いてたとかじゃなくて!」
「じゃあ嫌いなの?」
嫌いな奴と一緒にいるわけがない。それは遥も同じだろう。
居心地がいいから一緒にいる。楽しいから一緒にいる。安心するから。好きだから。
たしかに間違ってはいない。
けれど、香恋が言っているのは、定義の広い『好き』ではない。異性に向けるそれだ。
「違う。俺は、そんなモノ持たない!」
「どうして? 恥ずかしがることじゃないんだよ。だって彼方ちゃんは女の子だから」
女の子、と言われて彼方は言葉を詰まらせる。
香恋と遥のタチが悪いところは、ふざけてるわけでも、茶化してるわけでもないってことだ。
「彼方ちゃんは、こっちに来てから何回遥くんのこと考えたの? 誰のことよりも、気になってたんじゃないの? ずっと一緒にいたからこそ、突然のことが不安だったんじゃないの?
認めてあげればいいじゃない。素敵な気持ちだよ」
「やめてくれ」
何もかも否定できないことが悔しかった。
好きとか嫌いとか、そんな胡散臭い二元論で量りたくなんてないのに。
「どっちにしろ、今すぐには会えないんだから、いいじゃない」
「っ!」
「香恋たちがこの世界に来たのは片道の切符だった」
念能力を開花させたことで弾き飛ばされた。
あれから、オーラの量は増えるばかりだ。帰れるわけがない。
そして、例えば突然念能力が使えなくなったところで、帰れるわけでもない。こちらの世界にも念が使えない奴らは溢れているのだから。
顔色を悪くするばかりの彼方を見て、香恋は溜息を吐いて、まとめた。
「何が言いたいかっていうと、両方選んでもいいんだよってことだよ」
「両方?」
俯いていた彼方が顔を上げると、香恋とばっちり視線が絡む。
香恋は微笑みながら、強い瞳で彼方を見据えていた。
「強くなることも大切なものも。
どうせ今すぐには何も変わらないんだから、今は強くなることを望めばいい。
たとえば、ハンター試験は良い刺激になるでしょ? ハンターになれば帰り方も探しやすくなる。
だから悩まなくていいの。彼方ちゃんならきっと両方手に入れられるから」
驚いたことに、香恋はすべてを見透かしていたのだ。本人も気付いていなかった複雑な感情さえも。
その上で試験を受けようと言った。
「……降参だ。香恋、お前には敵わない。お前がいてくれて本当によかったよ。ありがとう」
「うん。午前中に申し込みは済ませてきたからね」
彼方の顔にもようやく笑みが戻る。
それはどこか吹っ切れたような表情だった。
「馬鹿のくせに、余計なこと考えるとロクなことねえな。でも、俺はもっと強くなるよ」
「うん」
「念を起こそうって言ったのは俺だし、自分が蒔いた種だもんな」
「うん」
「お前を巻き込んだ落とし前はきっちりつけるから」
「ん。でも、思い詰める前に香恋に言って? そのために二人なんだから」
「ああ」
何かが変わったわけじゃなかった。
結局、香恋のことは理解させてくれなかった。遥について否定させてくれもしなかった。
明かされた本音と暴かれた本音はこれからも息づくだろう。
けれど氷が一つだけ解けた。
すべてに迷う必要はどこにもないんだ。すべてを望めばいい。手に入らないとか、そういうのは掴み損なってから考えればいい。
その日は、大して疲れてもいないのに熟睡できた。