12.二人 -- いまさら気付くありがたみ

 試験まであと1ヶ月ある。

 二人はククルーマウンテンを下り、なんとなく国境を越え、辿り着いた街のホテルに一泊した後、2LDKで家具備え付けのマンションを借りた。
 身分を証明するものはなかったが、多めに家賃を前払いすることで商談が成立した。

 それなりに広い部屋に荷物を置くが、そもそも持ち物はこちらに来たときの服とイルミが貸してくれた少しの金、彼方が天空闘技場で稼いだ賞金の通帳くらいだ。

 ホテルや居候ではなく、この部屋で“生活”するんだと思うと香恋は身の引き締まる思いだった。
 さすがに冷蔵庫には何も入っていなくて、夕食は途中で買った弁当を食べる。

「明日は買い物に行かなきゃね」

 香恋が言い、「俺はどうしようかな」と彼方が相槌を打つと、香恋は口を尖らせた。

「何言ってるの。彼方ちゃんも付き合ってくれるでしょ?」
「いや、俺そういうのよくわかんないから、任せる」

 彼方は昔から家事なんてしたことも、する必要も無かった。『天宮』の家では跡取りとして地位が高く、学校の調理実習でさえ、同じ班の人間にすべてを任せてきた。サバイバルな状況では食材に火を通すくらいしたが、素材の味を生かしていた。
 服は、無ければジャージや道着で一日平気で過ごしていたから、どうにかしろと言われて、香恋と出かけたときに香恋が選んだものを買うことが多かった。

「そんなこと言っても、買わなきゃいけない物って結構あるんだよ? 服でしょ、ケータイでしょ、食材でしょ、調理器具、その他必需品」

 指を折って説明されても、自分には関係ないように思えた。

「ケータイはいらないし、服はなんでもいいか……」
「ケータイは無いと不便だし、良い機会だから持ってよ。服を選ぶのは構わないけど、荷物持ちにはなってもらわなきゃ困るな。食材とかも、香恋だけじゃ持ちきれないよ。二人きりの共同生活なんだから、協力しようよ」
「……悪い」

 発言が自己中心的だったと気付いて、彼方は頭を下げる。
 元々周囲から一歩引いて過ごしていて、人付き合いが苦手なのだ。いつも香恋や遥が譲歩してくれるから忘れそうになるが、ときどき気付いては申し訳なく思う。

「いいの。彼方ちゃんを一日中ショッピングに縛りつけようなんて思わないから。最初にケータイ買って、一旦別れて、あとで迎えに着てね」
「わかった」

 当然、財布と通帳は香恋が持つことになった。


 部屋割りを決めてそれぞれの部屋に入ると、広さのせいか中はがらんとしているように彼方は感じた。
 不思議だった。ゾルディックでは2人部屋だったが、天空闘技場にいたときも一人だったはずなのに。

 先ほどの会話を思い出し、ふと思った。
 香恋がいなければ、現在は無かっただろう。この世界で過ごすことは困難を極めたはずだ。少なくとも、一人だったらゾルディック家に喧嘩を売っていたから。

 彼方は思った。香恋は秩序だ。香恋がいるからこそ余計な不安を覚えずに済む。 かよわいのに、鍛えているはずの自分よりもずっと強いところがある。
 傍にいると安心できる。無茶を見守ってくれる。ずっと香恋に救われている気がする。

( 俺は香恋に何が出来る? )

 わからない。ずっと自分のために生きてきたから。此処に来て香恋のありがたみを思い知った。

 ――彼方は知らなかった。香恋も同じだということを。
 一人では不安だし、自分に出来ないことが出来る彼方の存在をありがたく思っている。

 そこで、思考が切り替わった。


( そういえば遥にも迷惑かけっぱなしだったな )

 当然だと思っていた日常が途切れて以来、思い出ばかりが目の前を駆け巡っている。
 そしてそれは輝かしかったような気がしてならないのだ。
 すべての登場人物が善人に見えるし、自分だけが悪人に見える。

 遥の呆れ顔。馬鹿みたいに笑う自分。
 遥の歌声。言葉を失って聞き入る自分。
 遥の怒声。無茶をしすぎて傷を負った自分。
 遥が差し伸べた手。

( アイツはいつでも、“俺”を“俺”として見てくれた )

 感謝と後悔が同時に浮かぶ。
遥はどうしているだろうか? 何も変わってない? むしろ、静かになってせいせいしている?

 借りっぱなしのCDがやけに気にかかった。他にも借りたものは沢山あるのに。遥ならもう取りにきただろうとわかっているのに。

( やるせない )

 かつての自分は強くなることにしか関心がなかった。この世界に来たって、ただ獣のように生きただろう。
 けれど、中学に入って、2人と出会って、大切なものが出来た。捨てられないものが出来てしまった。

 強くなりたい、その思いはいつだって変わらない。
 強くなることに余計な感情はいらないとわかっているのに、あの歌が聞こえない。それだけで、どうしてこんなにも弱くなってしまうんだろう。

 彼方は自分の感情の波に飲まれそうになって、それを押し殺すように無理矢理瞼を閉じた。


 朝になるとやはり彼方は目覚めて部屋を抜け出して、街に走りに行った。
 気分が乗らないときほど、距離を増やすことにしている。
 向こうの世界での“ノルマ”は当に捨ててしまっていた。

 周囲に人気がなくなると更にスピードを上げる。
 久しぶりに本気を出したくなって、身が裂けそうなほど風を切る。
 ランニングハイという奴で、苦しいのに苦しくなかった。
 最高速度、と思った瞬間にゴールを定め、それを越えると満足して、走るのを止めた。

 気づいたら山の中だった。
 開けた場所だったので、拳を振り回してみたりとしばらく身体を動かす。
 触れてはいないが、衝撃で数本の木が倒れた。

 それから、同じように来た道を戻る。
 国境を越えそうなくらい遠くまで来たが、恐ろしいほど方向感覚だけは良いので迷うことはない。


 久しぶりに息を切らして、部屋に着いたのは正午に近かった。
 すでに一人で食材と調理器具を買ってきたらしく、香恋は台所で昼食を作っていた。

「お帰り! 遅かったね」

 そう言われて、ようやく彼方は買い物に付き合う約束をしていたことを思い出した。

「悪い。忘れてて」
「いいよ、いつものことだもん。その代わり、午後はちゃんと付き合ってね?」
「ああ」

 香恋の変わらない笑みに安心する彼方がいた。


 あらためて街を歩くと、見慣れない象形文字の存在に気付く。

「象形文字じゃないよ。ハンター文字だよ」
「読めるか?」
「少しなら。興味本位で覚えたのが役に立ったみたいなの。こっちに来たからには、すらすら読めないと不便だよね。ちゃんと勉強しなきゃ」
「頑張れよ。俺はいいや」

 文字が読めなくても言葉が通じれば大丈夫だろ、と言うと、香恋は複雑な表情を浮かべた。

「彼方ちゃん、天空闘技場の受付はどうしたの? たしか、用紙に記入しなきゃいけないんじゃなかったっけ」

そういえば漫画にもそんなシーンがあったと思い出して、答えた。

「ああ、受付のお姉さんが代わりに書いてくれた」
「……その人、顔赤くなかった?」
「なんでわかったんだ? 風邪気味みたいだったけど」

 すると香恋は小さく溜息を吐く。彼方ちゃんらしい、と呟いた。

「もしかしなくても、天空闘技場では沢山女の人に物貰ったでしょ?」
「男にも貰ったけど」

( それは崇拝されてるからだよ )

 香恋は口には出さなかったけれど、彼方に呆れていた。
 彼方という人物は、恐ろしく整った顔をしているのだ。
 すらりと伸びた手足、高い身長、無駄のない筋肉。胸はない上、常時サラシで押し潰していることを除けば、完璧なスタイルの良さだ。
 中性的で、女だとわかっているから違和感を感じたりもするけれど、男だと思い込んでいれば素直に、物凄く格好良い。
 しかも天空闘技場では勝利を重ねていたはずだから、憧れの的にならないはずがない。

 自分がそういう目で見られることに、薄々とは気付いているはずだが、性別が間違っているという時点で当然興味はなく、特に気にしてないようだった。

( 鈍いってわけじゃないんだけど、偏ってるんだよね。一緒にいたのが遥くんじゃ仕方ないけど )

 そして、そう思う香恋自身 恵まれた容姿をしていることを自覚している。
 服選びは任されている。
 それなら、美男美女カップルにしか見えない格好で歩いて、デートしよう。


 香恋の笑顔の理由を彼方は知らなかった。


 top 


- ナノ -