09.決戦 -- とある悲しい物語

 それから更に一週間ほど経って、香恋は決戦の日を迎えようとしていた。

 指輪を嵌めてから幸福な三日間、絶を続けた結果、香恋のオーラは平凡な状態に戻ったことを確認できた。
 しかし、副作用なのか、今までよりも纏えるオーラの量がかなり減っていた。
 けれど逆に指輪を外せば、オーラは除念の性質に変わり、量も多くなった。

 とにかく、制約と誓約の指輪で、香恋はオーラの性質を自分の意志で操れるようになったのだ。

「じゃあ、除念を発動させて」

 香恋とイルミはとある樹海の入り口まで来ていた。
 この奥に標的の屋敷があるらしいが、強力な念が侵入者を阻み、迷い込ませ、入った人間は誰一人として帰ってこないという黄泉の森だ。

 イルミの言葉に香恋はわかりましたと頷いて、指輪を外し、唱えた。

「“静かな海(サイレント・シー)”」

 それはただの円だった。
 けれど、前述のとおり、指輪を外した香恋のオーラには除念の効力がある。
 香恋のオーラが及ぶ範囲(半径2.4メートル)ではすべての人間が絶状態となり、香恋のオーラに触れた念能力は消滅する。
 貴重なオーラの性質を活かし技として完成させた能力だ。

 イルミはその円の領域に入り、自分が絶状態になることを確認した。
 そして訊ねる。

「どれくらい持つの?」
「約40分です」
「……まあ、充分かな」

 そのままの二人が樹海に足を踏み入れた途端、周囲の景色が変わった。奥が見えないほど鬱蒼と覆い茂っていたはずの木は、半分が幻だったらしく、視界に余裕が出来た。雑木林程度である。足元には真っ直ぐに細道が続き、おそらく目的の屋敷まで続いていた。

 黙々と歩いている間、香恋は祈るように固く手を組んでいた。
 纏や絶ならともかく、円を長時間維持することは容易ではない。40分というのは限界の限界だろうから、のんびりしている時間はない。
 それに、常に集中力を研ぎ澄ませていなければ解けてしまうかもしれないのだ。

 イルミは二週間前のこの女のオーラの量を思い起こし、比べて、よくこの期間で此処まで伸ばしたものだと思う。執念じみたものを感じる。
 自分が出した条件は厳しめだったはずなのに、結果、彼女はそれに応えた。わざわざいわくつきの指輪を用意したかいがあったというものだ。

 そんなことを考えながら、イルミは襲ってきた獣たちを最小限の動きで倒していく。
 侵入者対策としてペットも放し飼いにしているようだった。
 始め香恋は獣の牙に怯えていたが、近寄る前にイルミが倒してくれるので、今は安心して円をすることと歩くことにだけ集中している。
 下手に周りを見渡すと、人骨があったりするから余計なことを考えないように必死だ。

 香恋がいるのであまり急ぐことが出来ず、屋敷に辿りつくだけで20分ほどを費やしてしまった。
 帰り道が安全だと言い切れないことを考えると、かなり際どい制限時間だ。

  それはぎりぎり屋敷と言える程度の廃れた家だった。ゾルディック家の屋敷とは比べ物にならない。客が訪れないせいか、扉は立て付けが悪く、玄関さえ埃に塗れていた。まさに幽霊屋敷だ。本当に人が住んでいるのかと疑いたくなる。

 暗くて古い廊下にはアンティークの置物が並び、暗いシャンデリアがかかっている。
 木造のせいで、歩くたびにぎしぎしと音がした。
 階段は二階で途切れていたが、外観の高さを考えると屋根裏があると推測できる。

 寂れた書斎に標的の人物はいた。
 目に光がなく、がりがりに痩せた、本当に生きているのかわからないような老人だった。
 不法侵入者の存在に気付いているのかいないのか、呻くような弱い声を上げた。

「この人を、殺すんですか?」

 香恋は思わず訊いてしまった。
 不気味な、今にも死んでしまいそうな人だと思った。
 けれど外界と交流があるわけでもなさそうだし、わざわざゾルディック家に依頼する必要性を感じなかった。

「まあ仕事だからね」

 イルミもその意見には同感だったらしい。
 しかし解説を加えた。

「正確にはさっきの森にかかってる念をこの男の呪いだと思ってるらしいから、これを殺せば呪いが解けると思ったんだろうね。実際はそうとは限らないけど」
「なるほど……」

 イルミはその老人に近づき、森の念を解除しろと要求した。
 反応がなかったので、針を刺して操作しようとする。
 老人の顔が奇怪に歪んだ。

「……駄目だ。あの念能力はこの男の物じゃない」
「え?」
「誰かが男を此処に閉じ込めていたか、この屋敷に他に誰か住んでいるのか」

 残り時間は10分を切っていた。それがどれだけ正しいのかわからない。
 屋敷内に念能力が働いている様子はないので、イルミは香恋に“静かな海(サイレント・シー)”を解除するように命じた。
 30分間も円を続けた香恋の呼吸は既に荒く、気力だけで立っているようなものだった。40分が限界と言ったが、それは本当に限界の限界なのだ。少しでも回復するために絶をする。
 標的はあまりにあっさり殺せたが、屋敷から安全に脱出するためには森にかかった呪いを解く必要があった。

 イルミは気配を探り、屋敷内にオーラを宿している人や物がないか調べた。
 すると、さっき通ってきた廊下のアンティークのいくつかがそれに当てはまることを知った。
 書斎にある目の前の絵画もそうだ。

「念能力の核を探すけど、除念出来るよね?」
「……はい、大丈夫です」

 相変わらず香恋は従順だった。侵入者だということを忘れそうになるくらいだ。
 どうして従うことができる? ゾルディックの敷地にやってきたことがただの事故だとするなら、彼女に何の罪もないのだ。

 香恋はオーラを次々と宿したアンティークを前にすると、指輪を外したまま纏でそれに触れ、除念した。

 最後に辿り着いた裏庭に横たわっているものが何か、香恋は一見しただけではわからなかった。
 近づいて目を凝らすことでその形が示しているものがようやくわかった。
 わかると同時に香恋は悲鳴を上げた。

 それは少女の死体だった。
 香恋はより年下の、酷く痩せた長い髪の少女だった。
 不思議なことに、死んだのは一月以上前だと思うのに、虫などは近づいていなかった。
 外傷はなく、餓死か過労死か病死なのか見た目では判断できない。
 ただ、凝をすれば彼女に並大抵でないオーラが憑いていることがわかる。
 それこそが呪いだった。

 躊躇いながらも、香恋はオーラを纏った掌を少女の心臓部分に押し当てた。
 そして最後の力を振り絞った練で除念する。

 オーラとは生命エネルギー。酷使することは命の危険を意味する。
 約40分間、それは部屋の中で円だけに集中していた場合のタイムリミット。少し見栄を張りすぎた。香恋にとってこれは本当に限界だった。

 少女の体からオーラが消えると、同時にイルミと香恋を取り巻いていた森からも念能力の気配が消えた。

「それで合ってたみたいだね」

 それ、とは少女のことだろう。イルミはその様子を見届けて冷淡に言った。
 依頼終了・問題解決で、イルミは早々に此処を立ち去ろうとする。
 イルミの後を追いながら、香恋は少女を振り返って考えた。

 この家では何があったんだろう?
 呻き声を上げることしか出来ないあの老人が今まで生きていたのはこの少女のおかげなのだろう。
 けれど少女は老人よりも早く死んだ。
 そして老人をこの狭い屋敷に閉じ込めたのは少女だ。

 なにがあったのだろう。
 なにもなかったのかもしれない。

 小さな運命の擦れ違いで、微かな感情の起伏で、悲しい物語というのは生まれてしまう。

 老人の書斎に写真が飾ってあったのを思い出す。
 今よりも新しい屋敷の前で、老人と少女は笑顔だった。
 そう、あれはこの少女だったのだ。

 死体かどうかも一瞬悩む現在とは想像もつかない、幸せな時間を切り取った写真。

 そして、二人の小さな箱庭に土足で踏み込んで世界を壊した自分たち。
 罪悪感に似た感情が胸に湧き上がる。

「ごめんね」

 それでも香恋は前を向いて、少女に背を向けた。
 ふいに、大好きな人の顔を見たくなった。
 帰ったら会えるかな? と期待を抱いて、ゾルディック家に向かった。

 この世界で生きていく覚悟は出来た。


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