それから更に三日経って、香恋の修行も次の段階を迎えようとしていた。
イルミは言った。
“常にその状態でもいけない。自分の意志で操れるように、技として完成すること”と。
たしかに、触れた人間のオーラが無条件に消えてしまっては困る。
だからといって、“この世界”に来ることで勝手に変化したオーラの特質をどうやって操れというのか。
オーラに触れたオーラが消える、それは全くの無意識だった。
香恋にしてみれば、いつもと変わらずに纏をしているだけなのだ。
そこで現在のオーラと一般的なオーラの状態を切り替えるために、制約と誓約を使うことにした。
登場するのは夕食時に頼んでいた指輪である。期待以上の素晴らしい品が香恋の元に届いていた。
そのシンプルで上品なシルバーリングは、なにやら彫刻のようなものが施されていて、小さな宝石が埋まっており、内側には読み取れない文字が彫られている。
話によると、古代に滅んだどこかの国のお姫様の呪いがかかった指輪だそうだ。
数百年も前から全く形を変えず、男性が嵌めると数年以内に必ず死ぬらしい。
どうしてそんな物を、と聞くと、「ピッタリだろう」と、多分皮肉を言われた。
不気味な品だが、香恋はその指輪が気に入った。魅入られてしまったのだ。
けれど、いわくつきの品だからこそ、高価そうに思えた。
お金は、と言いかけると、「金の請求は男の方にする」と言われた。
そういえば彼方の性別を訂正し忘れていた。気付いたが、なんだか今更だった。街を歩けば常時勘違いされるのだ。
香恋は彼方が天空闘技場で思い切り頑張ってくれることを願う。
香恋は深呼吸をして、その指輪を嵌めると共に絶をした。完璧な絶だ。
そしてこれから三日間、その絶を解かない。
それは香恋が考えた、制約と誓約を作り出すための切っ掛けだった。
次に纏、そして練をするときには、オーラが普通の状態に戻っているはずである。
とにかく、三日間はひたすら絶だけをしていればいい。
もともと絶は得意だったが、『邪魔なもの』が無いこの世界に降り立った香恋にとって、絶は呼吸をすることと同じくらい簡単だった。
ただし体術的には気配を消せないので、かくれんぼが上手いわけではない。
香恋は今までオーラの総量を上げるために張り詰めていた集中の糸が切れて、解放感に包まれる。
ある意味ではやることがなくなったのだ。
短い昼寝をした後、敷地内を散策してみることにした。『ある程度自由にしていい』と言われたのでそれに甘えることにする。香恋が執事の屋敷を出るのは実はこれが初めてである。
部屋の中では彼方と同じように黒いスーツを着ていたが、屋敷から出るときにはこの世界に来るときに着ていた桃色のワンピースに着替えた。香恋は基本的にそういう服の方が好きだ。
広さに驚きながらゾルディック家の敷地内を当てもなく歩き回っているうちに、本邸が見えるような位置まで辿り着いた。
そろそろ足が疲れていた。
( 彼方ちゃんがいないと淋しいな )
それでも、素敵な出来事がありはしないかと微かに期待していた。
“この世界”に存在する人々との出会い。
例えば……、
「お前っ!」
ふいに、真横から聞き覚えのある声がした。
心臓が飛び跳ねた。鼓動が早くなる。
銀色の髪。凛とした横顔。青い瞳。
「キルア、くん」
「お前生きてたのか!?」
キルアは思わず声を上げるほど驚いていた。
何日も前に侵入者として迎えられた二人は、それ以来姿を見かけなかったから、てっきり死んだと思っていた。殺されたと。
「うん。えーっと、イルミさんの次の仕事で役に立つかもしれないから、って」
「ふーん……」
除念の能力のことは言えない。すると、思い浮かぶのは囮役くらいだ。
“まともな扱いを受けているわけがない。”
そう思って、キルアは多少の哀れみの目を向けた。
絶状態の香恋を見て、前よりも格段に生命力が薄くなったと感じたせいもある。
「男の方は?」
「警備の仕事やらせてもらってたんだけど、退屈だからって天空闘技場に出掛けて行っちゃった」
「なんだそれ」
キルアは呆れたように言って、出会い頭に兄と戦闘を始めた常識外れな男を思い出す。
世間一般でいう常識外れなこの家から見て常識外れなんだから、末期だ。
「キルアくんは? お仕事帰り?」
香恋は微かに返り血がついたキルアの服装を見て、言った。
キルアが頷くと、そっかぁと間延びした声が返ってくる。
「お前、俺が怖くねえの?」
「どうして?」
香恋はまるで子供が純粋な疑問を口にするように聞き返した。
キルアは一瞬口ごもった。けれど答える。
「まさか知らないわけじゃないよな? 俺も殺し屋だって」
「勿論、知ってるよ。暗殺一家ゾルディックさんだもんね」
「じゃあ、」
「じゃあキルアくんは香恋を殺すの?」
やっぱり子供のように純粋に訊ねる。
キルアはその瞳の奥に強かな光のようなものを見た。
「香恋が邪魔だったり煩わしかったらわからないけど、弱くて手応えもないし、仕事じゃないからキルアくんはきっと香恋を殺さないでしょ? こうやって話していられるでしょ? だから怖くないよ」
それは人質のような状態にある女の言葉だろうか? 殺し屋の庭にいる女の言葉だろうか?
指先の刃を首筋に当てたときは震えていたのに、この図太さはなんだ?
たしかに"隙を見せる"どころか、全身が隙だというくらい弱さを晒している相手をわざわざ手にかけようとは思わない。
馬鹿だとか愚かだとか思う前に、なんだか拍子抜けした。
あのときの印象とはまた違って、でもやっぱり変な奴だとレッテルを貼る。
「っぷ、はははは!」
目の前で腹を抱えて笑い出したキルアに、香恋は驚いた。けれど、すぐにつられて微笑んだ。そしてキルアに歩み寄る。
キルアは一通り笑い終えると顔を上げて、新たな質問をした。
「そういえば、あのときお前ら、どうやって敷地に入ってきたんだ?」
「うーんっとね、事故で」
「どんな事故だよ! 空から降ってきたみたいだったぜ」
「いろいろ、あったの」
「ふーん。まあいいけど」
曖昧にする香恋に話す気がないことを悟ると、キルアはその話題を諦めた。
そして新たな話題を探そうとするが、中々見つからなかった。同世代の人間と雑談なんかしたことがなかったのだ。
ふと気付けば、香恋との距離は普通に歩いて2,3歩くらいに近づいていた。
そしてやっと言いたいことが見つかる。
「えーっと、お前、暇?」
「うん、暇だよ」
キルアの伺うような質問に、香恋は即答する。
キルアは安心して続きを言った。「じゃあ一緒に、遊ぼうぜ。敷地の中案内してやるよ」
「本当!?」
それから二人は、空の色が変わるまでゾルディック家の庭を駆け巡って沢山のたわいもない会話をした。
家のこと、仕事のこと、修行のこと、ゲームのこと、漫画のこと、お菓子のこと。
キルアは対等な立場で会話できる相手がいることが嬉しかった。
香恋はほぼ聞き役に回り、飽きもせず相槌を打っていた。
自分のことをあまり話そうとはしなかったけれど、話を振られれば、学校に通っていたことや彼方という男のこと、“普通”の生活について語った。
幸せそうに微笑む香恋の口から彼方という男の名前が出たときだけ、何故かキルアは胸が痛んだ。
執事の屋敷に戻っても、香恋の顔からは笑みが抜けなかった。
相変わらず絶をしたままで、銀色の指輪にキスをした。
数百年も前から全く形を変えず、男性が嵌めると数年以内に必ず死に、けれど女性の純粋な恋心は叶えてくれるという、古代お姫様の指輪に、今日の日の素敵な出来事に感謝した。
( 素敵な贈り物をありがとうございますってイルミさんにお礼言わなきゃ )
明日もまた会おうとキルアに言われたから、制約と誓約のためだった装飾品が早くも大好きになった。
檻の中でも、幸福を見つけてみせる。