01.日常 -- 嘘みたいに非凡で平凡な

「遥ー、明日お前ン家行くから」
「……ん?」

 当然のように彼方から放たれた言葉に、遥は唖然とした。
 それから二秒間沈黙して、静かに「兄貴が帰ってくるから無理」と答えた。
 女でもいける綺麗な顔が少し引き攣っていた。

「だから? ああ、久しぶりに手合わせでもしてもらうかな」

 彼方の言う『手合わせ』とは、言い換えればかなり激しい殴り合いだ。
 遥の兄貴は傍から見ればかなり怖いお兄さんなのだが、彼方のことを気に入っていて、同じように好戦的な性格の似た者同士というわけだ。
 強さで言えばもちろん圧倒的に彼方の方が上手なのだが、どちらにしろ一筋縄ではいかないらしく、二人は顔を合わせるたびに戦闘を始める。
 そのたびに被害を食らうのは遥だった。

 遥にすればとんでもないことを言う彼方を、鳶色の瞳でキッと睨みつけてみるが、女顔の遥はマジギレしない限り怖さがない。
 むしろ、その綺麗な顔が際立ってしまうくらいだった。

「止めろよ、どうせお前らは手加減忘れて、俺の持ち物壊すんだから」
「なんだ、この前のことまだ怒ってんの?」
「そりゃ怒るだろ。たまには反省ってモンを知れこんのバカ」
「ハイハイ」

 聞き流すようにテキトーな返事をする彼方に、遥は盛大な溜息をついた。
 そのままその口から出た言葉はどきりとさせるものだった。

「彼方。お前たぶん"女"なんだから、あんまり危ないことするなよ」

 あえて曖昧な言い方をしたが、そう、 彼方は生物学上正真正銘の女性だ。
 しかし、その事実を意識させるものは殆どなかった。必ず『生物学上は』という枕詞が付く。

 とても中性的な容姿をしていて、本気を出せば 遥の兄貴なんて一瞬で地に伏せられるほど強く、ガザツに見えるが古い家で厳しく育てられたので立ち振る舞いもどこかカッコイイと言える。
 加えて彼女を取り巻く環境がそうさせた。男として育てられたようなものだ。
 
 たとえ思い出したようにでも、からかいの心なく彼方を女扱いするのは、遥ともう一人、香恋くらいだ。
 そして彼方はそれが苦手だった。どうしたらいいかわからなくなるのだ。

「っ!」

 ――女としての自分は、必要とされなかった。強く。強く、強く。彼方はそうやって生きてきた。
 今更、どうして女扱いされなきゃいけないんだろうか。
 とうして自分は、そんなことにカケラでも嬉しさなんて、感じているのだろう。

 遥と彼方にはそれぞれ片耳に同じデザインの銀のピアスが光っていた。
 それは、大切な絆。
 恋人でも親友でもなく、お互いが大切で特別な人間と認めた証だった。

「俺がお前ン家行くから」
「――わかった」

 彼方は大人しく従うしかなかった。


 ちなみに此処は教室で、時は昼休み。
 当然ながら、多くの生徒が二人を眺めていたが、二人はお構いなし。
 クラスメートたちも、特に邪魔をしたりしなかった。

 男女間の友情は成立するか?
 クラスメートたちは、特殊な例とはいえ、二人を見てYESと答えるだろう。
 二人はお互いが背中を預けられる存在であることはたしかだ。

 しかし、男友達のような付き合いをしているかと聞かれれば、どうやらそれは違うらしい。
 というか、だんだん変化しているのだ。二人の感情は、関係は。
 それを観察するほど面白いことはない。
 (いっそ、付き合っちまえよ)
 そう思っている人間も少なくない。
 けれど、付き合うとか付き合わないとか、二人にそんなことは関係ないのだ。
 二人は二人であればいい。一般的な型に当て嵌まる人物ではないのだから。



 第三者がそんなことを考えていると、滑り込みで邪魔が入った。
 鈴を転がすような澄んで可愛らしい声が発せられる。

「待って、待って、彼方ちゃん! 明日は香恋との約束があるでしょう?」
「あれ、そうだっけ」

 彼女は先ほども話題に出てきた『香恋』こと、桃桜香恋という少女だ。
 桃色が基調の女の子らしい服装で、まごうことない男物を着ている彼方とは一見対極の位置にいる。
 中高一貫の私服校であるこの学校では、服装にはそれぞれの個性が出るのだ。
 そして、香恋はこの学校で唯一、彼方のことを他の女子を呼ぶのと同じように「彼方ちゃん」と呼ぶ。

「もうっ! 修行するんでしょ?」
「あ、ああ……」
「ああ、じゃなくて! そんなことあったっけと思ってるでしょ。もうっ予定忘れちゃうのは悪い癖だよ」

 彼方はあらゆることに無頓着で、忘れっぽい。
 おそらく世間一般に溢れている物事には『どうでもいい』と思うことが多いのだ。予定も、服装も、宿題も。
 なんとも生きづらい人生である。

「修行? ……なんの?」

 突然の始まった会話の内容に遥は首をかしげた。この放っておくと二人は周囲を無視したペースで延々と喋り続けてくれる。いつものことだが、突然わけわからないまま話がまとまるのは困る。

 修行、と聞いて遥は武術や体術が思い浮かぶが、それなら香恋が一緒の理由がわからない。
 この自分を飾ることを知っている華奢な少女に修行という言葉は似合わないに程がある。彼方の修行の役に立つとも思えない。

 そんな遥に気づき、少女、香恋は悪戯っ子のように人差し指を唇に当てふっと笑った。

「二人の秘密だもん」

 ちなみに、そんな台詞が許されるほど、香恋は無敵の可愛さを誇っていた。
 (本当に中学生かと思うような)ゆるく巻いたキャラメル色の髪も、長い睫毛も、零れ落ちそうなブラウンの瞳も、珠のように白い肌も、すべて香恋を成す要素だ。
 校内一の美少女として認められていた。

 しかし遥は(本人は喜んでいないが)自分自身がそこら辺の女子にはひけをとらない綺麗な顔をしているせいか、特に香恋に惑わされたことはなかった。
 はあ? と、不機嫌そうに香恋を見る。一瞬火花に似た何かが散った。そんな二人のやり取りに気づかず彼方が呟いた。

「べつに遥になら言ってもいいんじゃないか?」
「もうっ! 彼方ちゃんが内緒にしよう、って言ったのにぃ」

 そうだっけと彼方が笑う。
 香恋は頬を膨らませた。

「まあ、来週家に来いよ、遥。そのとき修行の成果見せてやるから。絶対驚くぜ」
「もうお前の超人ぶりには慣れたけど」
「その言葉、忘れんな?」

 今更そんなことを言われても、彼方は出逢った当初から今に至るまで、幾度となくの常人離れを見せつけてきた。
 何度も何度も彼方が人間であることを疑ったのを覚えている。
 出会いから尋常でない動きを見せつけられた。
 窓から飛び降りるとか、多勢に無勢で余裕の圧勝とか、体育の授業でタイムを計るときは一人だけ距離を倍にされるとか、そんなことが常識になってしまった。
 そして、慣れた。溜息をつくくらいで、大抵のことには動じなくなった。

 けれど、今更彼方がそういうからこそ、想像もつかないような常識外れが待っているのだ。

「お前これ以上どうなる気だよ……」

 溜息をつきながら、しかし、結局遥は少し期待していた。
 言えるのは、絶対に退屈しない、ということ。彼方は何をやらかすんだろう。
 もしかしたら迷惑をこうむるかもしれない。面倒なことになるかもしれない。
 それでも、もともと性格が悪いほうだと否定しない。
 楽しませてくれるんだろ、と思いながら彼方を見た。

――まさか、あんなことになるとは知らずに。


「そういえば遥くん、今年も文化祭のライブ決まったんだってね?」
「ああ、相変わらず情報早いな。桃桜」

 文化祭は約一ヶ月後。
 遥の所属する軽音部は去年から野外ステージでライブを行っていた。遥はボーカルだ。

「でも今年は去年みたいじゃないんだよね? 楽しみにしてたのに」
「なに、遥今年は『歌姫』やんないの?」
「残念がるな。去年は先輩が面白がって女視点の曲ばっかり作るから」

 俺が歌わせられたんだよ。と続けた。
 遥は去年のライブでもボーカルを務めた。
 当時はまだ成長期が始まったばかりで、声変わりもせず、今よりもっと童顔で女みたいだったのだ。
 軽音楽部の『先輩』というはかなりイイ性格をしていて、ようは『女』として歌わせたのである。衣装も女物、名前はカタカナで、MCはさせない。
 遥も、ステージに上がってマイクを握れば人が変わって、演奏が始まれば完璧な歌を披露するから、 結果は大盛況で、『歌姫』の名が轟いた。
 けれど女顔を嬉しく思わない遥にとってはあまり輝かしくない過去だ。

「今年は去年と全然雰囲気が変わるし、俺が作った曲も一曲歌わせてもらえるんだよ」
「へえ、絶対見に行くからな」

 彼方は遥の歌が好きだった。
 音楽に愛された男。
 心に響く歌声。
 自分に縁のない才能は、素直に羨ましいし、すごいと思う。

「そうだ、彼方、先月貸したCD、今度部活で使うから返せよ」
「ん? 返したよな?」
「二枚返ってきてねえよ。月曜日に絶対持ってこい」

 命令調で遥が言う。彼方は予定にルーズすぎる。いちいち怒る気も失せるくらいだ。
 例えば今話題に出ているCDは十中八九、机の上に埋まっている。

「っていうかお前な、一度俺に借りてるもの全部返せ。『HUNTER×HUNTER』なんか半年くらい貸してるよな?」
「まだ読み終わってねえんだよ」
「読まないなら読まないで返せよ」
「途中まで読んだ時点でやりたいことができたんだよ」
「それって……」

 遥は直感で、それが修行?と聞きかけた。  ( 聞いておけばよかった )
 けれど (まあいいや) と飲み込んだ。思い当たったことは、あまりに無謀すぎるから。
 嫌な予感は来週に確かめればいいと思った。
 彼方は約束を忘れるけど、問い詰めれば最終的にはちゃんと守るから。(でも、このときに限って)

その会話は、乱入者によって遮られた。


「お前ら、授業始まってるぞ」


日常が続くと信じるのは当然のことだった。


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