27.君を傷つける全てのものから守ろう


基地の執務室で、ルルーシュの視線は一枚の書類に注がれていた。

「難しい顔して、どうかしたの?」
「……これを見ろ」
「これは……」

差し出されたのは、軍人の経歴書だった。
顔写真と家族構成、身体測定値やこれまでの所属、得意分野、技能などが記載されている。

「今度本国から異動してくる伝達役だ」
「この写真、ロロ、だね?」

明記された名前はロロ・ランペルージとは似つかないけれど、写真の顔は違わぬものだ。
あの名自体、ルルーシュの弟として付けられたものだったのだろう。年齢も違う。

本国から派遣されてくる監査役は常にいる。
それがスパイみたいなものだっていうのはしかたないことだ。
クロヴィス殿下はエリア11の総督だけれど、エリア11とはブリタニア帝国の植民地。一つの支部にすぎない。本国の方針とズレすぎたり、謀反の動きがあれば取り締まられる。
今までその役割に当たっていた者にはギアスをかけて制御いたのだけど、その性質上、たびたび人員の入れ替えがあるのだ。

「……どうするの?」

諜報員として派遣されただけならまだいいけれど、ロロは暗殺者だ。
年齢などの条件がないのなら、彼の能力は暗殺にこそ適している。
暗殺者として本国から送り込まれたのだとしたら、標的はクロヴィス殿下か、ゼロか。
心当たりはありすぎる。

ロロ――便宜上ロロと呼ぶことにする。この暗殺者――は、この世界においては出会った事実さえないけれど、かつてルルーシュの偽りの弟だった。
ルルーシュは今どういう気持ちでいるんだろう?
彼は厳かに告げた。

「伝達役には、今までどおりギアスをかける」
「そう……私もつれていってね」

ロロは今までの連絡役と違ってギアスユーザーだ。相手の動きを奪う。
ギアスをかけるとき後手に回るわけにはいかない。護衛がいる。
ジェレミア卿のギアスキャンセラーでは、ルルーシュのギアスまでかき消してしまうから、今回の目的にそぐわないだろう。

ルルーシュは一瞬躊躇って私と視線を合わせた。ある可能性に彼も気づいている。
いいよ。なにがあっても、耐えてみせる。





着任時にクロヴィス殿下に拝謁するという形でロロを含む三人の新任連絡係が並んでいる。
私もルルーシュも事務官に扮して軍服を着て、スザクは近衛騎士として控えている。

「このたび本国から赴任した――」

新任たちの代表が挨拶し、クロヴィス殿下がそれを受けて言葉を返す。
クロヴィス殿下がルルーシュを案内係として紹介する形で中央に招き、場の視線を集めた。
そしてギアスで以って命じようとして――

『敵のギアスを察知しました。跳ね返しますか?』

私は、自分を標的に含むギアスしか跳ね返せない。だからこれはルルーシュのギアスじゃない。
不穏な気配を嗅ぎとったのか、ロロがギアスを使おうとしたのだ。
これは想定の範囲内。
私がいるからこそ、ルルーシュはこの悠長な策を選べたのだ。

即座にYESを選んだ。その瞬間、心臓を握りつぶされるような苦痛が胸を抉った。
「うぐっ」と潰れたような声と共に胸を押さえる。息が、できない。

「レナ!?」

スザクに名を叫ばれる。
それで、ルルーシュも気づいてくれただろうか。ギアスが発動したのだと。

ロロのギアスは範囲内の人間の体感時間を止める絶対停止の結界だが、副作用として周囲の時間を止めている間、自分の心臓も止まってしまう。
絶対反射の鏡で跳ね返したら、副作用も引き継いでしまったのだ。

理屈はわかった。想定もしていた。
だけど、それがこんなに途方もない苦悶だとは、正直思っていなかった。

アニメでロロは顔色を悪くしてるくらいだった。だけど、そうか、心臓が、止まってるんだ。
意識があるまま心臓が止まるってこんなに非常識なことなんだ。
こんなものに慣れているほうが異常だったのだ。
まるで剥き出しで柔らかい命を喰いちぎられているみたい。

信じられないくらい苦しい、けど、今ロロは止まっている。
ルルーシュがギアスをかけるなら、今のはず。
耐えるのはほんの数秒のはずなのに、刻一刻が苦しくて、苦しくて。
一瞬が永遠に感じるとしても、長い。
解放の指示がなかなか聞こえてこないから、不思議に思う。

「どう、し……」

たの。まともに声になったかどうかわからない。
重い頭をどうにか起こして、揺らめく視界の中で、前を見る。
歪んだ光景の中で、ロロは――目を瞑っていた。
瞼を閉ざしたまま、体感時間を停止させていた。
ルルーシュのギアスは目を合わせないと効かないのに。

瞬き……いや、仕事前の深呼吸だろうか。
些細な動作だ。
でも、絶妙なタイミングだった。
たったそれだけのことで、目の前がいっそう暗くなった気がした。

ギアスじゃなくても、動けない相手をどうにかするなんて簡単だ。
ルルーシュは打てば響くように察したのだろう、一つ舌打ちをして、作戦の切り替えに入った。麗しい声が鼓膜を震わせる。

「枢木中尉! その男を拘束しろ。刺客だ!」

事前に想定したパターンの中には、万が一ギアスが効かなかった場合、というのもあった。
同時に二つのギアスの標的になることができるのかわからなかったから。
そのためにスザクにも護衛を頼んで、近衛騎士の装備の他に拘束具も持たせていたのだ。
スザクの鮮やかな身体能力をもってすれば、きっとたかだか数十秒のタイムロス。

たったそれだけの時間、このギアスを保持すればいいだけ。
それが、私には永劫にも等しく感じられた。
ここは極寒の地獄だ。

「手脚に枷を嵌めろ! 早くしろ! レナが死ぬぞ!」

この、右半身を打ち付けたような痛みと衝撃は、床に倒れたのだろうか。
立っていられない。両腕に力が入らなくて、起き上がることもできない。
まるでもう私のものじゃなくなったみたいだった。

渦潮に飲まれて、くるくると海の底へ落ちていく。
ぐるぐる、まわる。
深海の圧力で胸を潰されているような苦悶。空気が氷水のように冷たい。
酷い貧血のような眩暈と吐き気。
溺れたように息ができなくて、視界がぼやけて、まるで黒いインクが滲んだようで、手脚から徐々に冷たく、心底まで凍っていくようで。
叫びたいのに声が出ない。とてもじゃないが言葉にならない。

押さえたところでどうにもならないのだけど、他にできることがないから胸を押さえる。
息をしようにも、酸素を押し出す気力もない。
食いしばろうにも力が入らない。
歯の根が合わなくて、唇の端に泡が湧く。目の前がチカチカと点滅しながら白く染まる。脂汗が滲み、意識が遠のきそうだった。
しんじられないくらい苦しくて、すぐにでも解放されたいという本能に駆られる。

この苦しみから逃れる手段を、私は知ってる。
跳ね返しのギアスをオフにして、絶対停止の支配権を手放せばいい。
スイッチを切り替えるだけだ。トリガーに指はかかっている。

たとえば、水を張った洗面器から顔を上げることのように。
たとえば、自分で首を絞めた手を外すことのように。
しないでいつづけることのほうが難しいことなのだ。

でも、それをしてしまったら、今度はロロがギアスを発動させる。彼の独壇場になる。暗殺者の。
それは絶対駄目だ。私のせいで、万が一にでもルルーシュに傷ひとつ負わせられない。

私ができるといったから、こういう作戦になったのだ。
任された砦は守らなきゃ。
これができないなら、私には生きている資格がない。
誰が赦しても私が許さない。譲れない。

執念は、崖から落ちかけて岩を掴むようなものだ。その手を踏まれれば痛みで緩む。一本一本指が剥がれていく。
白ずんでいく意識で、必死にしがみついていた。
――ここは絶対に通さない。

視界が狭くなる。ごうごうと鳴る幻聴に阻まれて、周囲の音も聞こえない。寒くてたまらない。
このまま暗い海の底にひとりぼっちで取り残されそうな、恐ろしい孤独感に苛まれる。
死ぬほど苦しい。死んだほうがましなくらい、苦しい。
けれど、死ぬなら最後まで苦しんで死にますように。命の最後の一欠けらさえ燃やし尽くしてから死ねますように。
厄除けの鏡なら割れるまで、弾除けの盾なら壊れるまで、この身を、この心を尽くすのだ。
エゴでいい。この罪も罰も、地獄の底まで連れていく。

意識の端で、今私はさぞかし醜い姿だろう、と考える。
取り繕う余裕があるはずもない。
ルルーシュはロロと対峙して、芋虫のように這う私は眼中にないことが幸いだ。乙女思考はどこまでもしぶとい。


どんなに過剰な様子でも解除を命じないで、ちゃんと守らせてくれるのが、嬉しい。
そうだよ、死んでもいいの。どうか使い潰して。
そして狼狽えない対処こそが、最短路だ。心配はなんの解決にもならない。





「レナ、もういい!」

ようやく”よし”の合図が聞こえたのは、きっと一分程度後だった。

「、はあっ、」

ギアスを、副作用を手放すと共に、ドクン!と身体が跳ねた。
正常に動き出した心臓によって、血液が急激に巡り直しているのを感じる。
じぃんと徐々に酸素が脳に届いて満たされていくようだった。
身体中のさまざまなところがビリビリと痺れて、内臓が痙攣している。眼球の奥がパチパチと爆ぜる。

ロロが今どうなっているのか確認する余裕もないけれど、
ちゃんと拘束されているのなら、体感時間を止められても恐くはない。彼のギアスを封じたも同然だ。

ぜえぜえと乱れた呼吸音の中で、緊張が解けたのか、意識はますます白くなっていく。
よかった、ちゃんと守ることができた。
零れた笑みさえ途切れ途切れだったけれど、ふふ、と嬉しかったのはたしかだ。

死んだほうがましかもしれない苦悩でも、
また同じことがあれば、何度でも止めてみせる。

恋の苦しみに比べればこんなことなんでもない、というのは強がりが過ぎるけど、
心臓が止まらなくたって、いつでも胸は痛かった。いつだって命をかけて恋をしていた。

だから安心してね。なんて伝える余裕は、私にはなくて。
もっと言えば状況を確認する余裕も、起き上がる余裕も、瞼を開ける余裕さえなかった。

考えることはたくさんある。
他人のギアスの副作用を私は軽く考えすぎていたかもしれない、とか。
ルルーシュは咄嗟にロロを撃ち殺そうとはしなかった――たぶんそれが一番手早かった――こととか。
「刺客」と名付けたロロの処遇は、これから決めることになるだろうから、できればそのとき、同席したいこととか。

でも、……無理だ。動けない。
難は去ったのだから、役目は終わったのだから、しばらく倒れていよう。
気が抜けると、意識は白く途絶えた。


 top 

- ナノ -