弐拾伍
『ねえ、きみ』

実習に向かう途中の裏々山で突然背後から声を掛けられた。
びっくりして振り返ると、変な着物の女の子がいて、……ちょっと「かわいい」と思った。
髪を下ろしていたし、声も高めで、一人称は「私」だったから紛らわしかった。
「じゃぽにいず」とか「けいたい持ってる?」とかよくわかんないこと言うし、
書くのは変な文字だし、漢字もひらがなもわからないって言うし、迷子だけど、
好奇心旺盛で屈託なく笑って憎めない。それが第一印象。

『紫苑! ……お前、男だったのか』

忍術学園に編入したいって言うから連れてきて食堂に現れた紫苑は、髪を結い上げて男子の制服を着ていた。
声を上げたのは作兵衛だったけど、俺も性別を取り違えていたことに言葉を失うくらいにはショックを受けていた。
紫苑は性別を間違われたことを怒りもせず笑っていて、不思議な奴だと思った。
慣れているのだとしても、あまりにもあっけらかんとしていた。

次に驚いたのは、その強さだった。

『教科の勉強ばっかりしてたら頭おかしくなっちゃう。気晴らしに付き合ってよ』
そう誘われて、二つ返事で了承した。
俺たちも身体を動かすのは好きだし、他クラスで話題になったらしい紫苑の実力に興味があったのだ。
でも、まさかあれほどとは思わなかった。

『文句は勝ってからにしたらどう?』

比較的小柄で、女子と間違うくらいの外見だし、正直見くびっていたんだと思う。
手加減しようと思っていた最初が馬鹿だった。
身軽さも俊敏性も腕力も脚力も型も技術も洞察力も基礎も応用も、
強さに通じる物が何一つ敵わない。勝っているのは身長だけだ。
こちらは武器を使っていてリーチの差もあるのに、ちっともダメージを与えられない。
紫苑の動きは流れるようで、寸前で避けられて当たらないし、当たっても手応えがない。

実力差は一目瞭然で圧倒的だったけど、
紫苑のすごいところは、それが相手を萎縮させる種類のものではなかったということだ。
生き生きしていて、楽しむつもりなのが、楽しんでいるのがわかった。
自信ややる気を喪失させるんじゃなくて、追いかけたくなる。
挑発して、隙を見せて、引き寄せるから、つい必死になっていた。

それでも敵わなくて、あっさり地面に転がされた。
女みたいだと思ったのは失礼だったな っていうか、
こんな女の子がいたら曲がりなりにも体育委員で体力に自信があった俺の面目丸つぶれだとか
俺すげーかっこ悪いとか 思ったけど、
その後で作兵衛と左門と一緒に三人束になっても倒せなかったから、そういうもんなんだと理解した。
悔しいと思えるほど僅差ではなくて、一朝一夕では手が届かない。

そしてその日、だくだくに汗をかいたにもかかわらず、
紫苑が一緒に風呂に入るのを断固拒否したことが少し気にかかった。
身体に傷があるとかで混雑の時間帯を避けているのは知っていたが、
まだ俺たちしかいないであろう夕方ならいいんじゃないかと思えた。
思い上がりかもしれなかったけど、傷跡くらい、彼なら平然と晒しそうだった。

『私が気にするから』

そのとき、紫苑は拒絶するときも「笑う」んだな、と 思った。
それほど酷い傷跡で、複雑な理由なのかと勘ぐったりもしたけれど、違和感が残った。
嬉しいときの笑みと 楽しいときの笑みと 拒絶の笑みが 同じわけないのに、
紫苑は困っているときも怒っていいときも、平然と笑うのが上手いから困る。
基本的に器用でしなやかで強靭だからこそ、ちぐはぐな感じがする。

不意打ちだったのは、実習のために女装した紫苑を見たときだった。

元々小柄な体格、女かと迷う綺麗な顔で、艶のある長い黒髪。
それに紅を差した唇も、白くした肌も、頬と目尻の彩りも 映えて、花の髪飾りも よく似合っていた。
思わず見蕩れた。声はいつもより高めで、歩き方も淑やかにしていた。

『女装した紫苑って三之助の好みど真ん中だよなぁ』

作兵衛の言葉は、これでもかというほど的を射ていたけど、
美しさや艶かしいとさえ感じて、それが、
最初に出会ったときに「かわいい」と思った記憶を呼び起こして、食い違わなかった。
その絵姿が幻影としてでなく、冗談でもなく、紫苑という人物に狂いなく重なってしまってしまった。

きれいだということはずっと知っていたし、
女装して本物の女の子にしか見えないっていうのは、別にいい。
藤内や数馬だって相変わらず女装が様になっていたし、
上手な人が化粧をして見事に化けるっていうのは、忍術学園にいれば珍しくない光景だ。

けれど彼らは素材のよさだけでなく、喋り方や女装のための所作を学んでいる。
素人で、喋ってもこんなに違和感がないのは稀なことだ。
それは、少しくらい羽目を外しても女の子という印象に変わりがないということで、つまり――。

それから、紫苑をあらためて見るようになった。

誰かといるときは楽しそうで、しょっちゅう笑っている。
美人とか女顔っていうのもあるけど、雰囲気が 明るくて柔らかい。
すれ違ったとき、ふわりと良い匂いが香った。
女の子だと 思ってしまうことの、否定材料が足りないな と思った。

そうやって観察して、別のことにも気づいた。
時折無理しているような表情に見える ということだ。
ひとりになったとき、ふっと笑顔が消えることがある。
退屈に耐えるような、つまらなそうな、
それ自体を嫌悪するような苦しそうな顔をしている。
笑顔が翳って、輝きが鈍っていくのが心配だった。

作兵衛に相談したらホームシックだろって言ってたけど、
寂しいなら寂しいで紫苑はちゃんと誰かに言うのだろうか。
強くて、いつも笑ってて、付け入りようがないから心配だった。

なぁ、楽しくないの? って聞きたくなる。
楽しくないなら、楽しまなくても、そのままでもいいから、
楽しいときに、本当に笑っているのが見たい。

仮に性別を隠しているなら、大きな負担だろうし、
その秘密の片棒を担いでやりたい けど、
勝手に原因を邪推してしまうのは、友達を疑っていることだと思う。
いつも女に間違われて大変だなって思うのに、
何度「違う」って言われても、未だに女の子じゃないかって怪しんでいるんだから酷い裏切りだ。

馬鹿な発想かもしれない。酷い妄想かもしれない。
その考えを否定しようとするたびに、それ自体を否定される。
だから、打ち消すなら早く打ち消してほしかった。

『オレは紫苑がほんとは女なんじゃないかと思ってる』
『悪いけど、もう一回はっきり教えてくれる?』

いっそ殴ってくれればよかったんだ。
本気で怒ってくれれば、二度と間抜けな考えが浮かばないくらい頭が冷えたかもしれない。
彼の本気は想像できないくらい痛いだろうな とも思ったけど、
そういえば紫苑は、途方もなく強いけど、彼と戦ってどこか痛めたことはない。
それは上手く手加減されているってことで、器用だな と 思う。

強さを性別の根拠にされたけど、そもそもあれは"男だから"で済むものじゃない。
情けないのはわかってるけど、それとこれとは別問題だ。

『私にも、譲れないところはあるけど、譲るところもあるから勘弁してよ』

それは、笑おうとして笑っているような、胡散臭い笑顔だった。
ほんの少し声を震わせて、いつもよりも早口に、
目を細めて、口元を引きつらせて、無理に表情を作ったような    。
笑顔のはずなのに、きれいともかわいいとも思わなかった。

手を引かれて、そのまま彼――あるいは彼女の胸に、押し当てられた。
指先が紫苑の鼓動と呼吸を感じて、触れた手のひらが脈を打っていて、
掴まれた手首が、熱い。喉が渇く。雨が響く。

『……ね?』

肯定を求めるそれは、まるで泣き顔だ と思った。
きっと泣いてはいなかったのに、髪も服も雨で濡れていたからだろうか。
なんでそんなに苦しそうなんだろう。こっちまで息苦しくなりそうだ。
疑われて傷ついた? 追求されて困った?
必死さが紫苑をまるで弱々しいものに思わせた。

はたくように手を動かされても、理性では、この位置は違う とわかった。
中央で、少し上すぎる。肺の動きはわかるけど、これでは何の確認にもならない。
紫苑はわかってないのか? それともわざと?
もしも鳩尾の隣のあたりに手をずらしたら怒るだろうか、泣くだろうか。
彼女はちゃんと泣き方を知っているのだろうか。

表情に呑まれたのと、考え事をしていたせいで、なにもできなかった。
あるいは、それ以上彼を泣かせる勇気がなかったんだと思う。

『……ごめんな』

そんな顔をさせたかったんじゃない。
最初みたいに、笑ってほしかっただけなのに。
その笑顔を罪悪感なく見ていたかっただけなのに。

『ん、いいよ』

それは何を許してくれたのか と、聞くことはできなかった。
雨が止んでもあの泣き顔が頭から離れなくて、
ちくりと痛んだ胸は罪悪感なのか、それとも。


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