弐拾肆
降り出した雨で生物委員会は中断された。
長屋に帰る途中、用具委員の後輩を引き連れた富松作兵衛を見かけて、孫兵は声をかける。

「富松、紫苑は一緒じゃないのか」
「ん? 見てねぇな」
「ろ組に行くと言っていたんだが」
「今日は俺たち三人とも委員会だぞ?」
「そうなのか?」

じゃあ部屋にいるのかと思ったが、帰ってみても誰もいない。
紫苑が他に行く場所といったらどこだろう。
は組か、他学年か、委員会か……。短期間で随分知り合いを増やしたものだ。
人見知りしない性格は見習うべきところがある。

一緒に探そうか?と、いつもの迷子でも捜すかのように富松は言ったが、
誰かと違って紫苑は方向音痴じゃないし、迷子というわけでもない。
少し姿が見当たらないというだけなのだから、心配しすぎだろう。
探す口実がないから、自室に戻って待つことにした。
雨が作り出す静寂が空間を支配して、落ち着かない。
ジュンコを首に巻いて撫でていると、騒がしい足音。

「伊賀崎!」

戸を開けたのは、先ほど別れた富松だった。
どうしたのかと聞けば、先ほど四年の滝夜叉丸が訪ねてきたのだという。
いつもどおり次屋が迷子だそうだ。

「それで、紫苑も一緒にいるみてぇなんだ」
「紫苑が?」

そうか、体育委員会に参加していたのか。
好奇心旺盛なことは知っているので、それ自体は驚くことでもない。
だが、次屋が方向音痴であることくらい知っているはずだから、
気をつけていれば一緒に迷子になることは防げそうなものだ。

「あいつも方向音痴だからなぁ」
「そうか? 地図の見方は正確だし、実習のときも一人で動けているが」
「もともと学園に来たのも迷子だろ」
「初耳だ」
「どこから来たのかわかんないって、よく言ってるじゃねぇか」

そういえば、学園に来て何日目かに、
編入の許可を取るために一度実家に帰ると言って出て行ったが、
『とても遠くから来た』というのに、そのときは一日で戻ってきた。
おそらく南蛮出身なんだと思うが……。

その話をすると、左門と三之助による事例が身にしみている富松は、
「それって、帰り方がわかんなくてすぐ戻ってきたんじゃねぇの」 と言った。
そうかもしれない、と孫兵は答える。なにもかも憶測だ。紫苑についてはよくわからないことが多い。
全てを知る必要もない、と思う。
目に映る事実しか 人は手に入れられないのだから。

「とにかく、二人を捜すなら手伝う」
「雨が止んでからだな。二次被害が出る。あいつらも雨宿りくらいしてるだろ」

*
*
*

叩きつけるようだった雨は、それでも、やがて止んだ。
雑音が消えると、湿っぽい大気だけが残った。

「帰ろうか」

あれから三之助は何も言わなかった。
私には、判断に困っているように見えた。

「……ごめんな」

囁くような謝罪が届いた。
それは、"疑ってごめん"? それとも"問い詰めてごめん"?

「ん、いいよ」

この許容には行き場がない。
せっかくできた私の居場所が、嘘で真っ黒に塗りつぶされていく。
いつまでもここにはいられない と 思った。
たとえ偽らずに出会えたのだとしても、今より幸福かどうかはわからないけれど。

迷子対策は欠かせないから、離れないように手を繋ぐ。
黙ったままの三之助の、掌の温度だけが伝わる。
きゅっと握る力を強くすると、しばらくして、ぎゅっと握り返された。
せめてそれだけが私を繋ぎとめている気がした。

*
*
*

「三之助ー! 紫苑ー!!」

作兵衛の声が聞こえて、私たちは顔を見合わせた。
それから にぃっと笑って頷いて、互いの手を離して息を潜める。
背後に回りこんで、ドーンと体当たりをした。

「さーっくべ!」
「うおっ!」

前のめりになって転んでしまった作兵衛は、怒りの表情でこちらを見る。
私たちは作戦成功!と ピースを掲げる。

「てめぇら人がどれだけ捜したと思ってやがる!?」
「ありがとう、嬉しい!」
「この方向音痴どもが!」
「私は方向音痴じゃないよー!」
「俺も」
「お前らなぁ……」

作兵衛はこれ見よがしにため息をついた。
あ、三之助のせいで私の説得力までなくなっちゃったー。
でもさっきまでの辛気臭い空気を吹き飛ばせたから別にいい。

「ずぶぬれじゃねぇか。もういいから、さっさと風呂入って着替えろよ」
「うん」

作兵衛は男前だなー なんて思いながら頷くと、三之助が驚いた顔をした。
もちろんこの時間に私が共用の風呂場にいくわけがなく、
部屋で身体を拭いて、着替えて、布団に包まって温まるのだ。
その件について文句を言うのを諦めた二人に手を振って、私は長屋に向かった。
私たちの捜索を手伝ってくれた人には作兵衛から言っておいてくれるとのことだった。

*
*
*

長屋に帰る途中で孫兵に会って、捜していてくれたことを知った。
試しに「私は方向音痴じゃないよ?」と言えば、「知ってる」との答え。さすが孫兵だ。
風呂には行かないと言ったら、桶にお湯をもらってきてくれるそうだから、甘えることにした。
孫兵を部屋から追い出すというのも気がひけたから、
押入れにスペースを空けて、自分と着替えとお湯の桶と布団を置いて襖を閉めた。

狭さも暗さも苦じゃないし、これは私のわがままだと言って押し通した。
誰かに傍にいてほしかったのかもしれない。その暗闇は温かかった。

「ねぇ、たとえば私がとんでもない嘘つきだったら孫兵はどうする?」
「……どうもしないな」

襖に話しかけると、それほど間を空けずに答えが返ってきた。
"とんでもない嘘つき"という抽象的な例に対して、断定的な返答だった。

「なんで」
「全く嘘をつかない人間なんていないだろ」
「騙されてるかもしれないんだよ?」
「じゃあ逆の立場だったら紫苑は何かするのか?」
「……しない」

孫兵が私を騙していたとして、――たとえば私の命を狙っていたとしても、別にかまわない。
現在進行形で騙している私が言えたことじゃないし、
恨みを買うようなことはしてきたし、
それに、私が孫兵といたいと思って一緒にいただけなのだ、
騙されたというマイナス以上のプラスの宝物をもうもらった。
だからたいていのことは許してしまう、と思う。

他の誰でも同じだ。
騙されてもかまわないと思えるくらい、私はここが好きなんだ。

「僕も同じだ」

私は、友達を信じていないのだろうか。
傷つくことを、傷つけることを恐れているのだろうか。
簡単に傷ついてしまうほど脆いと、思っているのだろうか。

三之助は覚悟を見せてくれたのに?
その上で、私を見逃してくれたのに?

「私は、嘘つきだよ。平気で嘘をつくんだよ」

最低なんだよ、という声は喉元を通過できなかった。
偽り、嘘をつくことは手段である。
必要に応じて、状況によって、選択することを厭わない。

「どこが平気なんだ?」

一枚の襖をはさんだだけくらいの至近距離から聞こえた声によって、
顔を覗き込まれたような気分になる。
滲んだ薄闇によって、自分が泣き出しそうだと気づいた。

――嘘は有効な手段だった。
だからこそ、自分に害をもたらすしかない嘘をつき続けることが苦痛だった。
嘘は、貶めるために吐くものだった。友達に向けるようなものではなかった。

私は嘘が嫌いだ と 気付いたときには、私は嘘で塗り固められていた。


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