弐拾弐
ろ組の三人の長屋を訪れると、三之助の姿だけがあった。

「あれ、左門と作兵衛はいないの」
「あいつらは委員会。俺も今から。どうかした?」
「いや、体が鈍るから遊んでもらおうと思ったんだけど」

三人とも忙しい委員会に所属していたんだった。
私が入ることになった作法は、比較的自由で仕事も少ないのだ。
本当はいろんな委員会を試してみるつもりでいたけど、最初の一つで決まってしまった。

三之助はふうんと頷いて、私を眺め下ろす。この場には二人きり。
相変わらず胸にサラシは巻いているけれど、探るような視線に背筋が冷たくなる。
少し前から送られるこの視線は、好奇……の、ような。
今更興味を持たれているというのは、違和感を覚られているということだ。
三之助のことが嫌いなわけじゃない。むしろ、大切な友達だからこそ。

「それなら紫苑も体育委員会のランニング、参加すれば?」
「いいの?」
「うちの委員長は全く気にしない」

体育委員長はどんな人だったかな。
話を聞いたことはあると思うんだけど、忘れちゃった。
もともと運動不足の解消にきたんだし、
作法に入る前は体育委員会でもいいかなって思っていたから、断る理由は見つからない。

「うん、じゃあよろしく」


* * *


体育委員会には見知った顔が多かった。
金吾は一年は組、四郎兵衛とは二年ろ組、滝夜叉丸先輩とは 三四年い組の合同授業で会ったことがある。
初対面は委員長の七松小平太という先輩だけだ。
暇だから参加させてください というと、快くOKしてくれた。
そんな私を、彼らは理解しがたい目で見ていた。

「いけいけどんどん!」

走り出した七松先輩は、下級生には厳しいような速さで傍若無人に突き進む。
後輩に気を配りながら間を取り成しているのが滝夜叉丸先輩で、ちょっと見直した。
いっこうに息を切らさず委員長の後を追っていると、「根性あるなー」なんて声をかけられる。
対抗意識を燃やしてスパートをかけてくるものだから、私は他の生徒を気遣って、速度を緩めた。
「つまんないの」と舌打ちをされても困る。

それから、三之助の隣を走ろうと振り向くと、ちょうど彼は道を逸れたところだった。
あまりにも見事にはぐれるから、わざとじゃないかとさえ疑ってしまうけど、本人は無自覚だから面白い。
――今ならまだ私しか気づいていない。
ここで声を上げて先輩に知らせるのが正しい対応なんだけど、それは無粋だ。
せっかくだから、とことん付き合おうじゃないか。私が道を覚えれば学園までは帰れるだろう。
気配をこっそり消して集団から外れ、三之助を追った。

きっと私は逃げ出したい、暗鬱な悩みから目を逸らしたいんだ。
現状を手放したいわけじゃないから、あくまでも帰ってこれるという前提の下で、だけど。
その証拠に、三之助が曲がるたびに振り返って学園の方向を確認し、念のため五色米を落とす。
五色米は前に授業で使った残りで、必要かもしれないと思って持ってきたのだ。


* * *


そういえば私が最初に出会ったのも三之助だったなぁ、と思い出す。
彼らに出会わなければ、私は今頃何をしていただろう。
どうにでもして生きていけるとは思うけど、生態系が違うからサバイバルの知識は部分的にしか役立たない。

「あれ、みんなは?」

三之助は私を見て、立ち止まって周囲を見た。
どうやらゲームオーバーの時間だ。

「迷子?」
「さぁ そうなんじゃない」
「仕方ないな、捜しにいくか」
「委員長がいるんだし、大丈夫でしょ。二次被害があっても困るし、先に学園に帰ってようよ」

これは大義名分さえもない、騙すためだけの、身勝手な嘘。
私は嘘を重ねることで何を得たいんだろう。

「そっか、そうだな」

――きっと、こうして信じてもらえることに、許されてしまうことに、甘えていたいんだ。
罪悪感が蓄積されるのに、いっぽうで束の間の安心感を得る。まるで悪い薬のようだ。

「帰り道はこっちだよな?」
「違うよ、こっちだよ」

いっそ二人で遭難してみようか なんて 狂言じみたことを囁きたくなる。
それを抑えて、正しい方向を指差すと、「本当か?」と疑われる。まどろっこしい。

「紫苑ってたしか方向音痴だろ」
「いいから、私を信じて!」

どの口が言えたことか。


* * *


「あ、雨」

三之助の呟きが聞こえるとほぼ同時に、雨粒が頬に当たった。
見上げれば、曇り空が濃くなっていた。
帰り道は特に急ぐ用事もないので、雑談しながら歩いていた。

雨粒は、矢継ぎ早に降り注いで、草を揺らした。
――日頃の行いの罰が当たったかな。
なんて、あながち間違ってもいないことを考えているうちにも、雨脚は強まる。
シャワーを『強』にして、まるで積乱雲から水が氾濫している、という感じ。
笑ってしまいたくなるような、冗談のような降り方だった。

どこかで雨宿りをしよう と 二人で駆け出したけど、
雨をしのぐほど大きな木が中々見つからなくて、走り通した。
ようやく見つけて辿り着いた時には二人とも濡れ鼠だった。

「うわー、びしょびしょだ」

三之助は制服の上着を脱いだ。絞ると、水滴が溢れる。
その上着をタオル扱いして、豪快に髪を拭いた。
私もポニーテールをほどく。長い髪は、束ねて持つと絞れるほどだった。
濡れた制服が気持ち悪いけど、少し考えて、脱ぐのはやめた。

「紫苑は脱がねーの?」
「うん」
「風邪ひくぞ」
「大丈夫」

たしかに丈夫なほうだが、やせ我慢でもある。
胸にさらしを巻いて、その上に黒い前掛けも着ているから、
一見してわかることはないんだけど、ここは用心することにした。
透けるとは思わないけど、水に濡れてぴったり張りついているから、ごまかしが効かなそうで怖い。

三之助は呆れたみたいだったけど、どうしようもない。
持っていた手拭いを絞って、せめて顔と、髪と、制服を捲って腕を拭いた。
制服がびしょびしょなので、気休めにもならない。
着衣水泳でもしている気分だ。濡れた上着に体温を奪われていく。
学園に帰っても、お風呂に入るのは深夜なんだよねぇ。

気を紛らわして、幹に寄りかかり、手持ちぶさたに雨を眺めた。
激しさを増す豪雨の音が響く。
こんなふうに、追い立てられているような落ち着かない感じを、私はずっと抱えていた気がする。
諸悪の根源はこれだったのかと錯覚するくらい。
いつか氾濫して取り返しのつかないことになりそうな、本能の不安を。

感慨に浸っていると、頭の上に何か被せられた。
萌黄色のそれは、三之助の制服の上着だった。

「やっぱり寒そうだ」
「……今の三之助に言われたくない」

上着を脱いで、アンダーのみ。
成長期の男の子にふさわしく、きれいに筋肉のついた両腕が晒されている。

「それで、この上着をどうしろと?」
「だいぶ乾いたから、紫苑、着て」
「は…?」
「脱ぐのイヤなんだろ。
でも、そのままじゃ絶対風邪引くから、代わりに」

脱ぐのイヤって……あぁ、体の傷を気にしている(ことになってる)からか。
"着て"って、そりゃあ上半身だけでもこのずぶ濡れから解放されることは魅力的だけど、
じゃあ三之助は私の制服が乾くまでそのままでいるつもりなの?

「いいよ、そんなの。三之助が風邪引く」
「俺がそうしたいだけだから」
「なんで?」
「なんか紫苑ってほっとけないんだ」
「私、ちょー強いよ?」
「知ってる」

譲りそうにない三之助に観念する。
脱げばいいんでしょう、脱げば。
ただし、水分を少し絞ればマシになるわけだから、人の上着を借りるつもりはない。

着替えを見ないように大木の幹の反対側に回った三之助が、背中ごしに話しかけてくる。

「なぁ、腹が立ったらぶん殴っていいから、言っていい?」
「なに?」
「オレは紫苑がほんとは女なんじゃないかと思ってる」

雨が、激しさを増した気がした。


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