0.3秒。
2秒。
……0.5秒。
1秒かかるかどうか。
廊下で誰かとすれ違うたび、頭の中でカウントする私がいる。
それは、その集団を殺すのにかかる時間を無意識にシミュレートしているんだから、危うい傾向だと思う。
――殺せないことはない。ときに実力を出す必要はあるだろうけど、誰一人として――
そんな結論に安心している。
戯れだ、と思う。
そんなことを考えるのも、ここにいるのも、此処に縋るのも。
きっとバランスをとろうとしているのだと思う。
本来の私に反して、ここはあまりにも平和だから、ズレが生じる。
いつか化けの皮が剥がれそうだ、と思う。
私は私のまともさを信じることができない。
思考の奥で、本能を持て余しているような感覚がある。
慣れない環境、文化のまったく違う場所で、性別も偽って、よくもまぁ生活している。
能力で劣っているということはないのだけど、バレないように気を使ってはいる。
文字はだいぶ読めるようになったし、勉強嫌いな私が、よくも真面目にやっているものだ。
気を遣ってくれる友達さえいなければ、とっくに投げ捨てていただろう。
それってどこかで無茶をしているのかもしれない。
みんなの前で明るく振舞おうとする私がいる。猫を被っている、ということだ。
生徒の一員になってからしばらく経って、
物珍しさ、新鮮さを感じる時期は終わりつつある。
この学園で学ぶことによって、今以上に強くなることはないんだろうな、と思う。
純粋な戦闘や人殺し・暗殺の技術だけを叩き込まれて育った私は、どうやら規格外のようだから。
『いろんなこと』を学べるのはいいけれど、培ってきた技術を鈍らせるのにはやはり抵抗がある。
秘密がバレないかスリルを味わう というゲーム感覚は、
感情移入してしまった途端に零下まで冷めた。
厄介な嘘などないほうがよかった と思ってしまうくらい。
友達になりたいのに自分から隔たりを作るなんて馬鹿みたい。
今の私がここにいる理由を支えているのは友達なのに、
その友達に嘘をつき続けているという矛盾は、私を蝕む。
そんなふうにストレスの原因を挙げてみる。
特にこれという理由があるわけではない。
今のところ、胸の奥で黒く焦げて燻っているだけだ。
不調なんて誰にでもあることでしょ?
* * *
すぐ隣を通り過ぎた私に、振り向く人がいた。
「兵助、どうした?」
この声は竹谷先輩だ。孫兵の先輩だから知っている。
生物委員会の毒虫捜索を手伝ったこともあるから。
「今、あいつ足音がしなかったな…」
一緒にいる黒髪の先輩は、どうやら優秀な感覚を持っているらしい。
五年生ってあまりよく知らないなぁ……。
* * *
「わぁ!」
赤ん坊をあやすみたいに、廊下の曲がり角で大声を上げて驚かされた。
いや、気配には気づいていたから驚かなかったんだけど……。
その先輩は背が私より高く、青い制服を着ていた。五年生だし、声に覚えはないから多分初対面だ。
なぜ『多分』かというと、彼は私の顔を使っていたからだった。
「……あれ、驚かない?」
「変装上手いですね。シナ先生もそうだし、うちの兄貴もだけど」
まぁ、イルミに「わぁ!」なんて茶目っ気がないことは断言できる。
この学園にいたらいつか学ぶことになるんだろうか。それは楽しみだなぁ。
先輩は心なしか寂しそうに、気まずそうに眉を下げた。プライドを傷つけちゃった、かな?
「うーん、やっぱりこっちにするべきだったか」
言いながら先輩は、顔を大仏にした。
それは、とツッコミを入れるまもなく、真面目に悩んだふりをしながら、次々とキテレツに変装していく。
頭身合わないしんべヱや化粧の濃い伝子さんまでいた。面白い人だなぁ。
「私は紫苑っていいます。先輩は?」
「五年ろ組の鉢屋三郎だ」
自己紹介のときだけは、一つの顔に定めてビシッと決めた。
珍しくまともだったけど、素顔だとは思えなかったから、お気に入りなのかな。
「本当の顔は見せないんですか?」
「ん、まぁね」
「そうですか。私そろそろ行っていいですか?」
「えー」
三郎先輩は不満げな声を上げた。
きっとこの人は、他人で遊ぶのが好きなんだろう。イイ性格してるなぁ。
不調のせいで遊ばれてあげる元気はないのが残念。
その悪戯精神は見上げたものがあるから、逃げるにしても、少しだけサービスすることにした。
見せ掛けだけど、映画みたいに指で印を組む。
「分身の術」
そんなことを言いながら、『肢曲』で背後に回る。
映画でやってたのはCGだったけど、これは歩行術だ。暗殺術でもある。
それなりに高度だから、学園では習わないかもしれないな。
先輩は呆気に取られくれたから、ひとまず成功。
「じゃ、また」
さっさと駆け出そうとしたら、すばやく腕を掴まれた。
心成しか、先輩の目がきらきらと輝いている。
「なにそれ、なにそれ!」
まさに面白い玩具に出会った子供である。
予想外に関心を引いてしまった。見事に選択を誤ったらしい。
こうなれば自棄だ。
「なんちゃって分身の術」
「そんなの私は習ってないぞ」
「じゃああんまりやらないほうがいいですね」
「それより種は、仕掛けは?」
なんと説明したものか。
「歩行術の一種です」
「私も覚えたい」
「教えられるものじゃないです」
「ケチ」
というか、習得しないほうがいい部類の技術だ。
それに私は家では教えられるほうの立場だったし、
一人前ではあったけど、師になるほどは驕っていない。
「じゃあ交換条件にします?」
「何?」
「引き換えは先輩の素顔と、変装技術を私に教えてくれること」
困難な条件を並べたつもりだったんだけど、先輩は「よし!」と即答した。
なんだ、大したこだわりがあるというわけじゃないのか。
先輩は顔を片手で覆って、瞬く間に変装を解いた。
あるいは新たな変装をした可能性もあったんだけど、なんとなく私は信じた。
「なんだ、せっかく綺麗な顔してるのに、隠すなんて勿体無い」
「秘密の方が面白いじゃないか」
「それには同感します」
同類の存在に、私は微笑んだ。