弐拾
0.3秒。
2秒。
……0.5秒。
1秒かかるかどうか。

廊下で誰かとすれ違うたび、頭の中でカウントする私がいる。
それは、その集団を殺すのにかかる時間を無意識にシミュレートしているんだから、危うい傾向だと思う。

――殺せないことはない。ときに実力を出す必要はあるだろうけど、誰一人として――

そんな結論に安心している。
戯れだ、と思う。
そんなことを考えるのも、ここにいるのも、此処に縋るのも。

きっとバランスをとろうとしているのだと思う。
本来の私に反して、ここはあまりにも平和だから、ズレが生じる。
いつか化けの皮が剥がれそうだ、と思う。
私は私のまともさを信じることができない。
思考の奥で、本能を持て余しているような感覚がある。

慣れない環境、文化のまったく違う場所で、性別も偽って、よくもまぁ生活している。
能力で劣っているということはないのだけど、バレないように気を使ってはいる。
文字はだいぶ読めるようになったし、勉強嫌いな私が、よくも真面目にやっているものだ。
気を遣ってくれる友達さえいなければ、とっくに投げ捨てていただろう。
それってどこかで無茶をしているのかもしれない。
みんなの前で明るく振舞おうとする私がいる。猫を被っている、ということだ。

生徒の一員になってからしばらく経って、
物珍しさ、新鮮さを感じる時期は終わりつつある。

この学園で学ぶことによって、今以上に強くなることはないんだろうな、と思う。
純粋な戦闘や人殺し・暗殺の技術だけを叩き込まれて育った私は、どうやら規格外のようだから。
『いろんなこと』を学べるのはいいけれど、培ってきた技術を鈍らせるのにはやはり抵抗がある。

秘密がバレないかスリルを味わう というゲーム感覚は、
感情移入してしまった途端に零下まで冷めた。
厄介な嘘などないほうがよかった と思ってしまうくらい。
友達になりたいのに自分から隔たりを作るなんて馬鹿みたい。

今の私がここにいる理由を支えているのは友達なのに、
その友達に嘘をつき続けているという矛盾は、私を蝕む。

そんなふうにストレスの原因を挙げてみる。
特にこれという理由があるわけではない。
今のところ、胸の奥で黒く焦げて燻っているだけだ。
不調なんて誰にでもあることでしょ?


* * *


すぐ隣を通り過ぎた私に、振り向く人がいた。

「兵助、どうした?」

この声は竹谷先輩だ。孫兵の先輩だから知っている。
生物委員会の毒虫捜索を手伝ったこともあるから。

「今、あいつ足音がしなかったな…」

一緒にいる黒髪の先輩は、どうやら優秀な感覚を持っているらしい。
五年生ってあまりよく知らないなぁ……。


* * *


「わぁ!」

赤ん坊をあやすみたいに、廊下の曲がり角で大声を上げて驚かされた。
いや、気配には気づいていたから驚かなかったんだけど……。
その先輩は背が私より高く、青い制服を着ていた。五年生だし、声に覚えはないから多分初対面だ。
なぜ『多分』かというと、彼は私の顔を使っていたからだった。

「……あれ、驚かない?」
「変装上手いですね。シナ先生もそうだし、うちの兄貴もだけど」

まぁ、イルミに「わぁ!」なんて茶目っ気がないことは断言できる。
この学園にいたらいつか学ぶことになるんだろうか。それは楽しみだなぁ。
先輩は心なしか寂しそうに、気まずそうに眉を下げた。プライドを傷つけちゃった、かな?

「うーん、やっぱりこっちにするべきだったか」

言いながら先輩は、顔を大仏にした。
それは、とツッコミを入れるまもなく、真面目に悩んだふりをしながら、次々とキテレツに変装していく。
頭身合わないしんべヱや化粧の濃い伝子さんまでいた。面白い人だなぁ。

「私は紫苑っていいます。先輩は?」
「五年ろ組の鉢屋三郎だ」

自己紹介のときだけは、一つの顔に定めてビシッと決めた。
珍しくまともだったけど、素顔だとは思えなかったから、お気に入りなのかな。

「本当の顔は見せないんですか?」
「ん、まぁね」
「そうですか。私そろそろ行っていいですか?」
「えー」

三郎先輩は不満げな声を上げた。
きっとこの人は、他人で遊ぶのが好きなんだろう。イイ性格してるなぁ。
不調のせいで遊ばれてあげる元気はないのが残念。
その悪戯精神は見上げたものがあるから、逃げるにしても、少しだけサービスすることにした。
見せ掛けだけど、映画みたいに指で印を組む。

「分身の術」

そんなことを言いながら、『肢曲』で背後に回る。
映画でやってたのはCGだったけど、これは歩行術だ。暗殺術でもある。
それなりに高度だから、学園では習わないかもしれないな。
先輩は呆気に取られくれたから、ひとまず成功。

「じゃ、また」

さっさと駆け出そうとしたら、すばやく腕を掴まれた。
心成しか、先輩の目がきらきらと輝いている。

「なにそれ、なにそれ!」

まさに面白い玩具に出会った子供である。
予想外に関心を引いてしまった。見事に選択を誤ったらしい。
こうなれば自棄だ。

「なんちゃって分身の術」
「そんなの私は習ってないぞ」
「じゃああんまりやらないほうがいいですね」
「それより種は、仕掛けは?」

なんと説明したものか。

「歩行術の一種です」
「私も覚えたい」
「教えられるものじゃないです」
「ケチ」

というか、習得しないほうがいい部類の技術だ。
それに私は家では教えられるほうの立場だったし、
一人前ではあったけど、師になるほどは驕っていない。

「じゃあ交換条件にします?」
「何?」
「引き換えは先輩の素顔と、変装技術を私に教えてくれること」

困難な条件を並べたつもりだったんだけど、先輩は「よし!」と即答した。
なんだ、大したこだわりがあるというわけじゃないのか。
先輩は顔を片手で覆って、瞬く間に変装を解いた。
あるいは新たな変装をした可能性もあったんだけど、なんとなく私は信じた。

「なんだ、せっかく綺麗な顔してるのに、隠すなんて勿体無い」
「秘密の方が面白いじゃないか」
「それには同感します」

同類の存在に、私は微笑んだ。


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