08.蘇る感情

藤原という姓を聞いて、思い浮かぶのは一人しかいない。
お前なのか? 佐為!


聞きたいことがたくさんある。

どうしていなくなった?
――まだ神の一手を極めていなかったのに。

どんな気持ちだった?
――打たせてやれなくてごめんな。

どうして今頃、今までどうしてた?
――どんなに探しても、いなかったのに。


聞かせたいことがたくさんある。

対局、昇段、出会い、別れ。
――なにから話せばいい?

いろんなことがあったんだ。
――お前の知らないことが。

六年だぞ、六年。長かったよな。
――誰も立ち止まってなんかいなかったんだ。


エレベーターが下りるのが待ち遠しかった。
一刻も早く姿を見たい。
俺に碁を教えてくれたのは、お前なんだ。

一階に着いて、ドアが開くと、駆け出した。
入り口に神経を張り巡らせて、懐かしい姿を探す。

平安貴族の装いに、長い黒髪。
そんな奴がいたら一目でわかるはずだった。

けれど、それらしい人物はいない。
いたのは、一人の高校生くらいの女の子だけだった。

息を切らしながら和谷の言葉を思い返す。
からかい半分はこういう理由だったのか。
頭の芯が急に冷えていった。
速まった鼓動が急に静まっていった。

今更、アイツが現れるわけがないか。

虚しくなった。
佐為に頼る気持ちがまだ残っていた。
立ち上がって、まっすぐに強さだけを求めてきたつもりだったのに。

そのとき、その女の子が俺に気づいた。

「あ、進藤さん!」

嬉しそうに笑顔を向けられても、戸惑うことしかできない。
真正面から顔を見ても、見覚えがないとだけ思った。

「えーっと悪いけど、どこで会ったっけ?」
「……見えませんか?」
「何が?」

その子は、顔を見合わせるかのように誰もいない隣を見た。
『大丈夫よ』とでもいうかのように、微笑む。

「千年の時を永らえた人。あなたに囲碁を教えた人。あなたに会いに来たんです」

目を見開いて、息を呑んだ。
その言葉が示すものが他にあるだろうか?

「見えなくても此処にいるんです」
「アイツが、此処に?」
「はい」
「どこに、なんで、佐っ」

叫ぼうとした声を遮って、彼女は続けた。

「ここではお話できません。今からお時間もらえますか?」

取り乱す自分とは対照的に、落ち着き払った年下の少女。
何者だろう?と疑問が浮かぶ。

けれど、そんなことよりも、近くにいると知った佐為の姿を探してしまう。
何度辺りを見回しても、誰もいない。と感じるだけなのだが。

「もちろん!」
「――自己紹介が遅れました。私は古戸 玲奈といいます」

古戸――。やはり聞き覚えのない名前だと思った。
そして、"藤原"というのは単に佐為のことを指していたらしい。

「荷物、取ってくる」
「はい」

聞きたいことがたくさんある。
聞かせたいことがたくさんあるんだ。


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