藤原という姓を聞いて、思い浮かぶのは一人しかいない。
お前なのか? 佐為!
聞きたいことがたくさんある。
どうしていなくなった?
――まだ神の一手を極めていなかったのに。
どんな気持ちだった?
――打たせてやれなくてごめんな。
どうして今頃、今までどうしてた?
――どんなに探しても、いなかったのに。
聞かせたいことがたくさんある。
対局、昇段、出会い、別れ。
――なにから話せばいい?
いろんなことがあったんだ。
――お前の知らないことが。
六年だぞ、六年。長かったよな。
――誰も立ち止まってなんかいなかったんだ。
エレベーターが下りるのが待ち遠しかった。
一刻も早く姿を見たい。
俺に碁を教えてくれたのは、お前なんだ。
一階に着いて、ドアが開くと、駆け出した。
入り口に神経を張り巡らせて、懐かしい姿を探す。
平安貴族の装いに、長い黒髪。
そんな奴がいたら一目でわかるはずだった。
けれど、それらしい人物はいない。
いたのは、一人の高校生くらいの女の子だけだった。
息を切らしながら和谷の言葉を思い返す。
からかい半分はこういう理由だったのか。
頭の芯が急に冷えていった。
速まった鼓動が急に静まっていった。
今更、アイツが現れるわけがないか。
虚しくなった。
佐為に頼る気持ちがまだ残っていた。
立ち上がって、まっすぐに強さだけを求めてきたつもりだったのに。
そのとき、その女の子が俺に気づいた。
「あ、進藤さん!」
嬉しそうに笑顔を向けられても、戸惑うことしかできない。
真正面から顔を見ても、見覚えがないとだけ思った。
「えーっと悪いけど、どこで会ったっけ?」
「……見えませんか?」
「何が?」
その子は、顔を見合わせるかのように誰もいない隣を見た。
『大丈夫よ』とでもいうかのように、微笑む。
「千年の時を永らえた人。あなたに囲碁を教えた人。あなたに会いに来たんです」
目を見開いて、息を呑んだ。
その言葉が示すものが他にあるだろうか?
「見えなくても此処にいるんです」
「アイツが、此処に?」
「はい」
「どこに、なんで、佐っ」
叫ぼうとした声を遮って、彼女は続けた。
「ここではお話できません。今からお時間もらえますか?」
取り乱す自分とは対照的に、落ち着き払った年下の少女。
何者だろう?と疑問が浮かぶ。
けれど、そんなことよりも、近くにいると知った佐為の姿を探してしまう。
何度辺りを見回しても、誰もいない。と感じるだけなのだが。
「もちろん!」
「――自己紹介が遅れました。私は古戸 玲奈といいます」
古戸――。やはり聞き覚えのない名前だと思った。
そして、"藤原"というのは単に佐為のことを指していたらしい。
「荷物、取ってくる」
「はい」
聞きたいことがたくさんある。
聞かせたいことがたくさんあるんだ。