「じゃあ、進藤君。君は誰に碁を教わったの?」
相手が低段者だったために、進藤はその日の対局で易々と勝利を収めた。
六年の年月と並々ならぬ努力を経て洗練された囲碁に迷いはなく、輝かしい一手を放つ。
高段者でも、敵う実力者は少ない。
彼は来月、本因坊を戦う。
今や周囲も、『若手の双璧』として自分――塔矢アキラと対等に肩を並べる人物であると認めていた。
その本因坊戦に向けて、『週刊碁』が進藤ヒカルの特集を組むらしく、
過去に自分も受けたような取材を彼は現在、受けている。
「…………」
しかし進藤は、その取材の途中で急に口を閉ざした。
最近の対局や成績についてはすらすらと語っていたのだが、
碁を始めた切っ掛けや、学び方、師匠についてなど、
院生になる前のことについては殆ど何も語らなかった。
彼は囲碁を覚えてからプロになるまでの期間が極端に短い。
それを指摘されるのは当然のことだというのに。
しかし、自分はその理由を知っていた。
正しくは、"謎"があるということを。
『いつか話す』と言われてから五年経った今でも語られていない。
今更 記者にぺらぺらと語ったりはしないだろう。
それでも、興味を惹かれてしまうからこうして、
先ほど終局した棋譜を並べ、検討をするふりをして聞き耳を立てているのだが。
「囲碁部の先輩とか……」
「へえ、そんなに強かったんだ?」
「……やっぱ今のナシ」
相手が個人なら適当な誤魔化しも通用するが、
『週刊碁』という形で世間に出てしまうなら、そうもいかない。
記者の不審の視線を受けても、俯くだけだった。
だからお前の抱えているものはなんなんだと問いたくなる。
今、彼の打つ碁が彼のすべてである。
たしかにそれは事実だが、真実ではない。
進藤は、何故か本因坊秀策に異常なこだわりを持っていたから、
ずいぶん前にその理由を尋ねたことがある。
すると、
『秀策はsaiの碁なんだ』
と、進藤は遠い目をして呟いたから、
深い意味がわからなくても、それ以上の追求は出来なかったけれど、
思わず座っていた椅子から立ち上がってしまったのを覚えている。
本因坊秀策とsai。
そういえば、出会った頃の進藤は古い定石を使っていた。
そして自分はsaiにその進藤を重ねていたのだ。
その発言は、進藤がsaiとの関連を認めたという点でとても重大な告白だった。
ネット上に二度と現れなかった伝説の棋士。
父がsaiと再戦を待ち望んでいることを知らないはずがなかったから、
その仲介を申し出ないということは、やはり事情があるのだろうと思うしかない。
「身近に碁をやってる人はいた?」
「じいちゃんが碁盤とか買ってくれたけど……」
あまりに歯切れの悪い返答に、記者も頭を掻くばかりだ。
進藤は言い逃れをするように視線を泳がせ、結果、自分と目が合った。
だが残念ながら助け舟を出してやることは出来ない。
再び盤面に視線を落とした。
そのとき、廊下を駆けてくる音がした。
「進藤! お前の知り合いって女の子が入り口に来てるぜ」
「知り合い〜? 誰、名前は?」
和谷という進藤の同期だ。
記者の存在に気づいて、頭を下げつつも口を閉ざさない。
「"藤原"って言えばわかるからって。お前って彼女いるんじゃなかったっけ?」
「……ふじ、わら?」
愕然とした顔で、進藤はその名を聞き返した。
そして、和谷に歩み寄った。
「『藤原』、本当にそいつそう言ったのか?」
「あ、ああ……」
「女? いや、女に見えないこともないか……」
最終的には質問しているかもわからないような言葉をぶつぶつと呟いている。
和谷が、『女に見えないことも』という言葉に、馬鹿言うなあれは間違いなく女の子だ、と反論しても、聞く耳を持っていなかった。
「入り口に来てる? アイツが?」
「進藤、お前を待ってると言ってた」
「――行ってくる」
ちょっと、進藤君!? と、記者が呼び止めても、『取材はまた今度』と謝るだけだった。
その様子に"何か"があるのだと感じて、自分もその後を追った。