06.溢れるような愛しさをこめて

「まず私はどうすればいいのでしょう?」
「あなたが成仏してから約6年経っているの。まずは"現在"を知りましょう」
「そうだ、ヒカル! 進藤ヒカルという棋士を知りませんか?」

また会えるかもしれないという喜びに、佐為の顔は生き生きしていた。
この幸福は私が与えたと思うと嬉しくてしかたない。

「知っている。理由は言えないけど、知っているの」
「今、どうしていますか」
「週刊碁過去一年分がリビングに並べてあるの。見てみるといい。凄い活躍ぶりだよ」
「リビングはどちらですか?」

思わず微笑みたくなった。

「案内する。ああ、そういえばこの隣がジン君の部屋なんだけど、壁を通り抜けて入らないようにね。
入ると恐ろしいことが起きるらしいから」
「わかりました。それよりも」
「うん。行こう」

リビングに着くと、佐為は膝を付いて熱心に記事を眺めた。
一面になっているもの、見出しになっているもの、写真が載っているもの。
すべてに感極まった声を上げていた。
私はその隣で、一週間かけて調べたことを教えてあげた。

佐為は凄い凄いと何度も呟いた。
ヒカル――同じ世界に来たのだから、『進藤さん』と呼ぶべきかもしれない――が、塔矢アキラを破ったときなんか特に。
まあ、二人の対局成績は互角と言えるのだけど。

けれど途中で、塔矢行洋の記事を見つけて、動きを止めた。

「私は、またこの者と対局することが出来るでしょうか」
「うん。ちゃんとそうなるようにするよ」
「ヒカルは、強くなったのですね」
「今日、会いに行こう」

そう言うと、佐為は見ていた記事から目を離して私を見た。

「本当ですか?」
「うん。今日はちょうど手合いの日だから、棋院に行って、出待ちしよう」

一週間暇だっただけあって、下準備は万全だ。
喜んでくれると報われる。
ジン君が私の世話をしてくれる気持ちがわかるような気がする。

「ありがとうございます!」
「じゃあ出かけよう。本当はそんなに急がなくてもいいんだけど、早く打ちたいでしょう?
ネット碁でsaiを名乗るのはやっぱり進藤さんの許可を貰ってからじゃないと、驚かすことになるからね」
「はい。……でも、本当に早すぎませんか?」

時計を見ると、まだ午前中である。
対局が終わるのは夕方だから、片道に掛かる時間を差し引いても、
余った時間の有意義な使い方というのはあまり浮かばない。
一人なら本屋とかにいればいいけど、佐為もいるとなるとそれも選べない。

「あの、玲奈も碁を打つんですよね?」
「うん。全然大したことないけど」
「では打ちましょう」

軽やかな誘い言葉に、私は虚を突かれた。

「……私と?」
「迷惑でしたか?」

考えていなかった。
藤原佐為という棋士と自分が対局できるということ。その可能性。
嬉しくないはずがない。嬉しくないはずが。
なぜだか私は自分が打つことを諦めようとしていたんだ。
昨日のネット碁が最後になると思い込んでいた。

ふいに涙が溢れてきた。
大好きな人に、これからずっと会えなくて、一人で生きていかなきゃいけなくて、
知り合いがいなくて、もうあの部室にはいけなくて、
次からネット碁ではsaiを名乗ることが決まっていて、
神様になったのだから、特殊なのだから、受け入れなきゃって思っていて、
ジン君は良くしてくれるから、心強いから、これ以上を望んではいけなくて、
それでも役に立てるならいいかな。時間を潰すためだけなのだから。そう思っていて、
たくさんのことを諦めようと覚悟していた。

私にも囲碁を打ってくれる相手がいたんだ。

自分で呼び寄せたくせに何を今更、とか思うかもしれないけど、
私にとってそれは、宝石を与えられるよりも嬉しいことで、
一人じゃないんだと思った瞬間、今まで胸に溜まっていたわだかまりが解けて、溢れる。
泣き出した私を見て、佐為は狼狽した。

「違うの。……嬉しくて」
「そうですか。……事情は、聞きません」

私は佐為の"主"という立場だから、
黙っていても佐為に思考を読まれてしまうということはないみたいだった。
言葉にしないと伝わらないのだ。

「ありがとう。指導碁をお願いします」


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