リビングの扉を開けると、佐為が窓からの月明かりに照らされていた。
最初は佐為のために夜中灯りをつけていたのだけど、
夜は暗いほうが自然だし、月が充分明るいからと言われて、今に至る。
並べた新聞の中の、ヒカルさんの公式戦の棋譜を眺めていたようだ。
「玲奈、眠れないんですか?」
「うん」
眠れとこの身体に言霊で命じることは簡単だけど、
日々を有意義に過ごすというのは、きっと機械的になることじゃない。
時には偶然に流されるのもいいんじゃないかな。
眼が冴えたのは原因あってのことだ。今日は起きていたい気分だった。
「一局、付き合ってくれる?」
「はい。喜んで」
悲しくはない。
ひとりきりならきっと怖がっていただろう闇も、佐為がいれば、美しいとすら感じられる。
*
*
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「ねえ、佐為。千年は長かった?」
碁盤を挟んで向かい合い、悩んだ末に一手を紡ぐ。
「そうですね……とても長かったです。様々なことが今では懐かしい……。
こうして玲奈と打っているのも数奇な縁なのでしょうね」
「うん。自分がここにいること、昔は考えもしなかった」
佐為が扇で示した次の手に、痛いところを衝かれてはっとする。
むむっと自分の読みの浅さを悔いながらも、その通りに石を置く。
神様に会って、神様になって、異世界で、漫画で知っていた、最強の碁打ちの、幽霊と、対局している。
誰が聞いても嘘みたいだと思うことだろう。
普通に生きていても想定通りの進路を歩んでいたかどうかはわからないけど、
たとえば全部幻で、私はあの日車に轢かれたまま、今も醒めない夢を見てるんじゃないかとさえ、思う。
ここはどこなんだろう。どうしてここにいるんだろう。
私はどこに行くんだろう。何をするんだろう。
誰に問いかけてもしかたなくて、宙に浮いたままの言葉。
信じているはずなのに、たまに曖昧になる。
私は高校生だった。囲碁部の副部長だった。学校の生徒だった。
両親の娘だった。夏実の友達だった。先輩の後輩だった。後輩の先輩だった。
生きていた。
自分はこうだと思う像を失って、私が誰なのか、誰だったのか、何者なのか、どんな存在なのか、わからない。
亡霊で、神様見習いで、佐為の宿り主で。
それは本当に昔と同じ"私"なんだろうか。
悲しいのか、嬉しいのか、幸せなのかさえ、思い込んでいるのか、与えられたものなのか、言霊が作った紛い物なのか、自信がない。
ただ生きていくことは、存在することは、できる。
ありがたいことに、ジンくんに安全を保証してもらっているから。
でも、人間らしく生きるには、他に何かが必要だ。
そうでなければ、一度死んだ私は、死んでいるとも判定できてしまう。
私は生きていたい。どこに行っても生きていたい。
「ねえ、佐為。私は何者なんだと思う?」
「――あなたが何者でも、玲奈は、私の大切な人ですよ」
「そっか……。ありがとう。認めてくれて、ゆるしてくれて」
その言葉はたしかだと信じられる。
長い旅の出発点として、この世界で選んで、本当によかった。佐為がいてくれて。
ひとりではきっと、与えられた自由の大きさに絶望したままだった。
失うことが怖い。私自身が変わっていくことも怖い。
大切なものがあった。なくしたくない物。
めまぐるしい環境の変化に流されて、新たに得る何かがある分だけ、こぼれていく。
今抱えているものも、どこまで持っていけるかわからない。きっといつかは失ってしまう。
――ねえ夏実。
あなたの代わりはどこにもいないけれど、
かけがえのないものをまた得て、私も進んでいく。
留めることができないのなら、せめてこの両手に抱えきれる分だけでもと、願う。
自分が生きているか死んでいるかを決めるのは私自身なら、
せめて感謝だけは胸に刻んで、未来の希望と目標を抱こう。
一手一手紡ぐように、歩んでいこう。
これからの長い旅路に震える気持ちを宥めるために、私への、餞。
*
*
*
約束の朝、待ち合わせ場所に現れたのはヒカルさんだけじゃなかった。
「悪いな。車だけ貸してくれって言ったのに、アキラもついてくるって言うから」
「当たり前だ。進藤の運転に人を乗せられるか」
「玲奈、ごめんな」
「いえ、あの」
「今日は運転手のつもりで来たから、僕のことは気にしなくていいから」
「えっと、私はいいんです……お忙しい中時間を割いてくださって、ありがとうございます」
話したてる二人はつくづく仲が良い。
私は運転できないから、ヒカルさんに任せきりになる予定だった。
長い道のりでは、運転手が二人いるほうが負担も減るし心強いだろう。
アキラさんがいいなら私は願ったり叶ったりだ。
まずアキラさんが運転席に、ヒカルさんが助手席に、私は後部座席に座り、不思議なドライブが始まった。
塔矢家の所有だという車は国産のわりに立派で、中も広くてやけに座り心地がいい。
前に座る二人が常に言い争いのようなことをしているために車内は賑やかだった。
私は座っているだけで楽だったけど、それでも時間の長さをあまり感じなかったほうだと思う。退屈しなかったってことだ。
途中、PAで休憩を挟み、アキラさんと交代してヒカルさんが運転すると、
高速道路とはいえスピードが出すぎていてたしかに怖かった。
アキラさんに散々文句を言われ、二つ先のPAでまた運転手が交代した。
そして9時間の長旅を経て、因島に到着した。
「ヒカルさん、申し訳ないんですが、今日は私と手を繋いでいてもらっていいですか?
せっかくなので、手を繋いでいる間は佐為が見えるというようにという儀式をしてもらって来たんです。
抵抗あるかもしれませんが、今日は部屋の中というように区切れないので、これくらいしか思いつかなくて」
空間に限定できないから、結界の代わりに、直接手を繋いで認識を共有する。
この歳になって誰かと手を繋ぐというのも少し恥ずかしいけれど、一日だけ我慢してほしい。
「わかった。ありがとな」
お礼を言われて、ぽんっと頭に手を乗せられた。
お兄ちゃんがいたらこんな感じかな?
見た目と対外的にはジンくんがお兄ちゃんってことになってるけど、
実年齢を考えるとヒカルさんのほうがありえそうな気がする。
お兄ちゃんをたくさん欲しがるあたり、私は甘える相手に飢えているのかもしれない。
そういえば、私も佐為に碁の指導を受けているから、ヒカルさんは兄弟子ってことにはなるんじゃないかな。
ヒカルさんは私の手を取り、佐為の方向を見た。
微笑んだから、ちゃんと佐為が見えているようだ。
てのひらから伝わるのは温かさ。
さすがに両側に二人共と手を繋ぐと面白いことになってしまうから、アキラさんには提案しない。
目が合うと、気にしないでと伝えられた気がした。
認識の共有。それは、人の領域を超えた力。
あまり多用できないことで、アキラさんに佐為を見せたのも一度きりだけど、
この小旅行は、通過儀礼として必要なことだと思うから惜しまない。
男の人と手を繋いでるのは、妙な感じだ。
思えば人に触れること自体、こちらに来てからは稀だった。
隣り合った距離で、歩く速度も合わせてもらっている。
久しぶりで、慣れなくて、こそばゆい。
もしも私が普通のままに生きていたら、
夏実のようにいつか誰かを好きになることがあって、
その人とのデートで手を繋いだりしたのかな。なんて思ったことは、ここだけの秘密だ。
因島で、虎次郎と佐為の軌跡を辿る。
佐為が誰より一番はしゃいで、先を急いではかつてを懐かしんだり変化に驚いたりと表情豊かだった。
それをしょうがないなぁって追いかけるのは、なかなか楽しくて幸せだった。
「よかった、笑ったな」
隣でヒカルさんがふと呟いた。
聞き返すと、なんでもないってごまかされる。
それが私のことなら、きっと、与えようとするたびに与えられている証拠だ。
進藤ヒカルと塔矢アキラは有名人だ。若手の双璧。本因坊と二冠の覇者。
道端で声をかけられることもあったけど、
特に本因坊秀策囲碁記念館では職員の方に強く引き止められた。
そんなときはアキラさんが応対を引き受けてくれた。
振る舞いもスマートだし、つくづく器量の大きい人だ。
ヒカルさんに向かって「貸しだ」と言っていたけれど、私には返すあてがない。
手を繋いでいるものだから、
「進藤本因坊の妹さんですか?」と聞かれることも多くて、そういうときはイトコと説明してもらった。
高校生にもなってって思うから、中学生って設定にした。
それでも、なかなかないことだと思うんだけど、そこはしょうがない。
人見知りの中学二年生だ。
中学生にしてはおとなっぽいって言われると居た堪れなかった。
四人で、本因坊秀策・虎次郎のお墓の前で、手を合わせて拝んだ。
ーー佐為を連れていきます。兄弟子さん。一緒に眠らせてあげられなくてごめんなさい。佐為を導いてくれて、ありがとう。
自己満足でも、いい。