47.今日の空、明日の空

夕食をごちそうになり、それから検討に移って、夜は9時を回った。
ヒカルさんとアキラさんには佐為を見えなくさせていたけれど、食卓は意外なほど賑やかだった。
棋士同士の激論だった、とも言える。

「今日はありがとうございました」
「こちらこそ、来てくれてありがとう」

玄関で頭を下げる。
ヒカルさんとアキラさんはこの後夜通し打つという。
彼らには青年特有の生気の漲りを感じる。
たとえるなら、ここは生者と死者の境界線なのだろう。

「じゃあ、玲奈を駅まで送ってくる」





月の眩しい夜道を、並んで歩く。
私のすぐ後ろには佐為がいる。
ヒカルさんは見えなくても佐為に話しかけて、私を介して会話が成り立つ。
ある決意を胸に、私は足を止めた。

「ヒカルさんにお伝えしなくてはいけないことがあります」

言うべきか言わざるべきか、知ってるのと知らないのとどっちがいいか悩んだけれど、ようやく決めた。
ここで言わなきゃ、ヒカルさんはまた佐為に別れの言葉を渡せない。

「どうした?」
「私は早くて半年、遅くてもあと一年ほどで日本を出なくてはいけないんです」
「えっ! どこに行くんだ?」
「場所は言えないんです。身内の仕事の関係で、遥か遠い秘境の地に旅立ちます」

ヒカルさんは寝耳に水という感じで目を丸めた。

「……いつ帰ってくんの」
「数年か、それ以上かもしれません。電話もメールも通じなくなるので、覚えていてください」
「なんだそれ。ネットは?」
「ネットも使えない環境なんです」
「じゃあ手紙」
「住所はお伝えできなくて。……たまに日本と行き来する知り合いに届けてもらうことならきっとできると思うので、手紙、書きますね」

ヒカルさんは事態の深刻さを理解して徐々に顔が強張った。
追い打ちをかけるようだけど、言わなくてはいけない。

「たとえ数年後に日本に帰って来られても、また2年ほどで戻ることになります。
だからネットのsaiの対戦申し込みは、今受け付けている分で終わりということにしてください。
ヒカルさんには矢面に立っていただいて、本当にご面倒をおかけします」
「いや、それはいいけどさ。……それ、玲奈は納得してんのか?」
「納得?」
「なんていうか、ちゃんと安全なところなのか? 相当不便なところなんだろ。言葉も違うだろうし……行きたくないならちゃんと伝えたほうがいいよ。なんなら俺も一緒に言ってやるから。
高校生じゃ自立は難しいかもしれないけど、佐為がいれば棋士として生計を立てる道もあるだろ」

私の心配をされてびっくりした。
佐為をこの世界に、ヒカルさんのそばに残すこともできたのに、連れていってしまうのは私の我が儘だ。
今度は運命じゃなくて、私がヒカルさんから佐為を、この世界からsaiをまた奪う。
だから、てっきり責められると思ってたけど、そっか、私には佐為をヒカルさんのそばに残すって選択肢があったことをヒカルさんは知らない。
心配させてしまうくらい、暗い顔をしていたんだろうか。

「ーーありがとうございます。言葉とかはどうにかなりそうなので、大丈夫です。
私がここに留まって、たとえば棋士になることは、どうしても無理なので、納得しています」

この世界を出ていかなきゃいけないのは決定事項だ。
ジンくんはただ次の滞在先を作ってくれるだけ。
言葉も安全もジンくんによって保証されているから、そのへんは恵まれている。
明日を失ってしまった私が、どんな形でも明日を与えらているだけ感謝しなきゃいけない。
これ以上どうしようもないってわかっている。

「そっか。せっかく会えたのにな……」
「ごめんなさい。私の事情で、佐為を連れていってしまって」

そんな言葉が口を衝いて。後悔した。
謝罪を吐露したのは、きっと懺悔して許されたかったからだ。

「何言ってんだ。玲奈のおかげでまた佐為に会えたんだ。アキラも、行洋先生もさ。
だからこっちが感謝すんのはわかるけど、謝ることはないだろ。俺は玲奈にも会えてよかったよ」
「……ありがとう、ございます」
「俺には何もできないけどさ、頑張れよ」

優しさに触れて、不意打ちで少しこみ上げた。
自分に何もできないと言う人の、与えてくれるものの大きさに泣きそうで、ただ俯いて頷いた。

ヒカルさんはきっといくらでも心残りがあるはずだ。
まだ佐為を超えていなくて、もっともっと佐為と打ちたいはずだ。
でもそれを私に突きつけたりせず、ただ励ましてくれた。
この人に会えてよかったと心から思った。佐為の前の宿り主がヒカルさんでよかった。
佐為を通じての交流だったとはいえ、かけがえのない時間だった。
志もなくただ生きている私には、あまりにも眩しくて、嫉妬しそうになるくらい。

もっと深く関わって、知ることができたらよかったと思う一方で、
これ以上親密になってたら、ますます身を裂かれるような別れに、耐えられなかったかもしれないから、第三者の立場を保っていたのはある意味で正解だったのかもしれない。
この世界で得た絆で一番深いのはやっぱり佐為で、佐為は旅路に連れていけるから、私は何も失っていない。ただ与えてもらっただけだと、思える。
これからずっとそういうふうに生きていくのかは、まだ決めていないけれど。

「そっか、あんまり時間がないんだな。
……実はさ、そのうち誘おうと思ってたんだけど、佐為を連れて行きたいところがあるんだ。玲奈、付き合ってくれるか?」
「いいですよ。どこですか?」
「因島」

その名称を聞いてぴんと来た。
"進藤ヒカル"が佐為を失った後、ひとりで向かった場所だ。
佐為も、行きたいです!と即座に反応した。

「本因坊秀策のゆかりの地ですね」
「お、知ってるんだな」
「はい。東京にもお墓があるんですよね」
「そうそう。そっちの墓参りもしたい」
「もちろんいいですよ。私も行きたいです」
「じゃあ早いほうがいいよな。……再来週の土曜日は?」
「ええと、大丈夫です」

対局のスケジュールを確認して答える。
時間は有限だ。今日あるものが明日もあるとは限らない。
それを、あのときに嫌というほど思い知った。

ようやく芽が出て、これからというときだったのに、終わりが近づく。
案外、物事ってそういうものなのかもしれない。
枯れきってしまうか、実るのを待たずに去ってしまう。
未練を残しながら、それを養分として先へ向かうしかない。
できるのは、せめて少しでも悔いが減るようにという儀式だけだ。

「じゃあそれで。他に日本にいる間に行きたい場所、ある? どこでも付き合うよ」

「ありがとうございます。えーっと……」
「思いついたらでいいから、考えといて」
「あ、そうだ。科学館! あと、スカイツリーも」
「いいな。行こう」
「はい!」

きっと、最後にこの世界に私の何を残せるか、なんて大それたものじゃなくて、
どれだけ満喫して、私の中にこの世界の何を残せるか。
それも、私次第なんだ。


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