46.共有する感覚と感情

長考の後、佐為の手が僅かに動くのを察して石を握る。
彼の声、扇子が指すのと同時に打てるように。

石を置けば、息を飲む声。
前に座る塔矢さんの、睨むような視線がいっそう鋭くなって、射殺されそうだ。
それは私じゃなくて、私の後ろに座る佐為に向けられたものだって、わかってはいるんだけど。
佐為も真剣勝負の中での 恐いくらいの集中が伝わってくるから振り返れなくて、ただ彼の媒介になろうと努める。
勝手に怯え竦んだリアクションを取れば気を使わせてしまいそうで、視線を落としてひたすらに盤上を見つめた。

――今、どうなっているんだろう。今のはどういう手だったんだろう。
ぴりぴりした空気の中で、つくづく場違いだなぁって感じる。

ヒカルさんも横から盤面に視線を注いでいる。
きっとどういう意図の手か・自分ならどう打つか思考を巡らせて、二人ともと戦っている。
私も、自分の持てる知識で頑張ってあれこれ考えるけれど、状況が更新されるたびに予測と違っていたことがわかるばかりだ。

佐為と出会ってから私も囲碁の腕前は上達して、わかることも増えてはいるんだけど、
何しろこれは日本の頂上決戦と言っても過言ではない対局だ。
本来なら私がこの場にいていいはずがない。
囲碁を打つ者にとっては遥か雲の上の、星に石を並べて宇宙を作る、神々たちの争いだ。

いつもネット碁の対局では、相手の長考中とか、佐為が簡単に振り返って解説をしてくれる。
さすがに緊迫しているときはできるだけ邪魔しないようにしているけど、相手はここを狙ったのでしょうとか、今はどこを争っているとか雑談も挟んで、わかりやすいし楽しい。

この世界に来る前、一人でテレビでプロの対局を見るときも、必ず他のプロ棋士による大盤解説がセットだった。
ここ一年はさらにそれに佐為の解説も加わっている。棋譜を並べてみるときもそう。
部活で棋譜を並べてみたときも、部長をはじめとしてみんなの意見が飛び交っていた。
人に頼りすぎとも思うけど、自分一人じゃ正しいかどうかもわからない。

ヒカルさんとの対局も緊張するけど、塔矢アキラさん――塔矢名人は、さらにプレッシャーが強い。気軽に声を出せない。
私はプロでもなんでもないんだから、難解な局面がわからないことはしかたないことだ。

それでも、対局がこの場で行われているという実感は何よりも得られる。
ネット碁と対面して打つことの違いには、
対局相手の反応がダイレクトに見えるということもある。
本因坊秀策に耳赤の一局という逸話があるように、急所を突かれれば、憤懣に似た反応が見える。
想定の範疇を超えた手なら驚きに目が瞠られる。息を飲む音がする。
当事者同士が向き合って、全身全霊を傾けている証拠だ。実在の、血の通った対局。

この空気は、緊張感は、きっと対局者にとっても得難い物なんだ。
だから、来てよかった。これは必要なことだったって思える。
おせっかいでも、何もできなくても、この対局は私が言い出さなきゃ実現しなかったのだ。

そういえば、佐為の存在認識は共有できているんだから、対局内容の解釈も、共有しようと思えばできるのかな?
ジンくんは私の心を読んでたし、たしか外国語を読める理屈は、相手の意図を読み取る能力だったはずだ。

神様の力を使えば、この場の他の人の思考を受け取ったり、置かれた石の意図を読み取ることが……――できても、しないほうがいいな。
勝負事が、囲碁が成り立たなくなる。

ああでも、佐為の思考を私の中に一時保存できたら、私が佐為の鏡になれたら、佐為は自分自身と対局することが可能になるのかもしれない。
そんな規格外のことは滞在時間短縮の要因になりそうだけど。
いつか、どこかの世界でよっぽど暇になったら提案してみてもいいのかもしれない。

塔矢さんの石の打つ音が、威圧感を持って空間に響く。
それだけで竦んでしまうような、気が引き締まるような音だ。
眼光炯々として佐為を見据える。





終盤になって、アキラさんが佐為の手を受けて、長く目を閉じていたことがあった。
やがて決意のような断念のような短い息をつき、目を開けたとき、勝負がついたんだとわかった。

投了は選ばれず、ヨセに入った。
険しかった表情はかすかに緩み、ふたりともまるで最初から順序が決まっているように、詰まることなく、けれど丁寧に、一手一手、紡いでいった。
まるで終局を惜しんでいるように見えた。

「ありがとうございました」

複雑で見事な棋譜を創りあげた二人が、互いに礼をする。
対局は途中休憩を挟んだとはいえ、五時間半にも及んでいた。
その表情は充足感に満ちていた。
ふーっと長い息を吐いたのはヒカルさんだ。その目は少し潤んでいた。

「いい碁だったな」
「ええ。強く……本当に強くなりましたね」

佐為は噛み締めるように言う。
二人が会話するのは今日が初めてだが、佐為はヒカルさんと共に長く彼らを見守っていたという感慨があるのだろう。
なにしろ初めて出会ったのはまだ小学六年生のときだった。

「それでも、まだあなたには及ばないようです」
「次回も私に軍配が上がればいいのですが」

佐為は慎ましく優美に微笑んだが、私には、必ず次も勝ってみせると言っているように聞こえた。
アキラさんだって、次回こそはという意気込みに聞こえる。
この場には勝ちに貪欲な棋士しかいないんだ。だからこその棋士。
社交辞令を交わし合っても火花が散っているように見える。

「ところで、ここをこちらに打ってたらどう返していましたか?」
「そうですね……それなら、」

闘志に火がついたのか、すぐさま検討に入ろうとする。
意気投合したのはいいことだけど、
たった今まで鎬を削り合っていたくせに、その気力はどこから湧いてくるんだろう。
元気すぎてついていけない。正直、そろそろ正座が限界だ。
そんな空気を、ヒカルさんが打ち破る。

「あーもう、検討は後! まずはメシにしようぜ。なあ、玲奈。ずっと対局で疲れただろ」
「え、えっと、たしかにお腹すいた、かも」

よくぞ言ってくれたと思った。

「――そうか、そうだな。じゃあ寿司でも取ろう。進藤、電話してきてくれ」
「俺が? ……まあ、いいけどさ」

ぶつくさ言いながらも立ち上がる。
勝手知ったる他人の家というヤツだろうか。
ヒカルさんは一瞬私を心配そうに見たけれど、そのまま廊下へ出て行った。

「藤原さん」

ヒカルさんの姿が消えてから、アキラさんは改まって佐為に向き直った。
それは私じゃなくて、佐為を呼んでいる。

「"佐為"でかまいませんよ」

ずっとsai<サイ>と呼んでいたのを知っているから、今更で他人行儀に感じるのだろう。
佐為は穏やかに応えながら、自らも居住まいを正す。
そういえば彼らは、衣装の時代が違うものの、外見年齢は同世代に見える。

「では、佐為さん。僕はあなたに感謝したい。
今日この日この場に現れてくれたこと。かつて、僕に遥かな高みを見せてくれたこと。
そして進藤ヒカルを囲碁に導いてくれたことを。――ありがとうございました」

深く深く、頭を下げた。真摯さが人柄を表しているようだ。
それだけアキラさんにとってヒカルさんは得難い好敵手なんだ。

「いいえ、私こそ。
ヒカルが囲碁に興味を持ったのも、続けたのも、あなたがいたからです。
師として心より感謝します。――ありがとうございました」

互いに礼をし合う奇妙な光景、どこかで見たことあると思ったら、授業参観・三者面談みたいなんだ。
アキラさんはこれを言いたくてわざわざヒカルさんを部屋から出したのかもしれないなぁ。

佐為は今まで以上にアキラさんに対等な敬意を払っているようだ。
……それはそうか、今や世界屈指の棋士だ。
たしかな才覚を持つ彼らなら、これから先、佐為に至り、超えることがあるかもしれない。
でも、まだ想像もできないと思うのは、身内贔屓だろうか。

「進藤は僕にとって生涯のライバルだと思っています。
――父にとってはあなたがそうだ。父も、ネットのsaiに会いたがっていました。
今日、先に会うのは抜け駆けのようですが、向こうのリーグ中に呼びつけるのは気が引けたので、まだ伝えずにいます」

ネット碁なら予定を合わせて四度目を打ったのだけど、やっぱり会うのが完全な形だと思う。

「私もぜひ、あの者ともこうして対局したいと思っています。
そのように伝えていただけますか」
「わかりました。――古戸さんも、この場を設けてくれて、対面を許してくれて本当にありがとう」
「どういたしまして。塔矢行洋先生の件、私からもよろしくお願いします。日程によっては私が中国に行くこともできるので……」

微笑んだところで廊下から足音が聞こえ、会話が打ち切られた。

「20分で来るってさ。……何笑ってんの?」
「――いや」
「なんでもないです」

食事中花が咲くのはやはり先ほどの対局だった。
ふたりには佐為を見えなくさせたので、佐為の言葉は私が代弁した。


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