45.巡り逢う幸福を

チャイムが鳴ったのを聞いて、すぐに玄関の戸を開けにいく。
戸の前には進藤と例の少女が並んで立っていた。

今日はsaiに目通りがかなう日だ。
呼びつけるようで申し訳なかったが、勉強会などで場所を提供するのはよくあることだ。
両親は現在中国におり、広い家に一人暮らし状態なので、碁打ちが集まるのには都合がいい。

「おはようアキラ」
「いらっしゃい。――はじめまして、塔矢アキラです。今日はわざわざ来てくれてありがとう」

進藤には軽く、saiの宿り主にはしっかりと挨拶する。
古戸さんは恐縮した様子で応えた。

「あ、はい! 存じ上げています。はじめまして、古戸玲奈です。今日はよろしくお願いします。……えっとこれ、お土産です」
「気を遣わなくてよかったのに。どうもありがとう」

差し出された紙袋を受け取る。中身は菓子折りのようだ。
こうして正面から会っても、高校生くらいの標準的な女の子だと思う。
周囲を見渡しても、他に人影はない。
事前に知識を与えられているとはいえ、やはり実感を得るのは難しい。

「本当に彼――saiは、今ここに?」
「はい。今日は約束通り――夢をお見せします」

不安を問うと、古戸さんはこなれた様子ではっきり答えた。

「そうですか。とにかく中へどうぞ」
「お邪魔します……」





ふたりを和室に通し、自分は麦茶を用意しに台所へ行く。
コップと古戸さんに差し入れられた菓子を載せたおぼんを持って帰ると、古戸さんが部屋の四方をじろじろと観察し、壁に触れてみたりしているのに出くわした。
進藤はそれを眺めながら何も言わずおとなしく座っている。

「何かありましたか?」
「いえ、すみません! 儀式みたいなもので」
「……そうですか」

その事情はよくわからない。進藤も詳しくは知らないらしい。
それでもいい。たとえ虚言でも、興味があるのは幽霊ではなく"sai"だ。

「もう大丈夫です」

古戸さんはそう言って、静かに僕と進藤に向かい合う場所に座った。
麦茶を勧めると、受け取って一口飲んだ。

「さっきも言った通りsaiは今ここにいて、私には見えています。
その認識の感覚をお二人に共有していただきます。
うさんくさいと思わずに、どうか言う通りに信じてくださいね」

まるで新興宗教のような口上と思ったのを見透かされたようだった。
この件でなければ馬鹿らしいと一蹴していただろうし、今でも半信半疑だ。
進藤も僕もこの少女に騙されているのではないかとさえ疑いたくなる。

「この部屋の中が結界になります。この部屋の中でだけ、お二人にもsaiが見えるようになります。期限は日の暮れるまでです。
では目を閉じてください。次に目を開けたときにはsaiがいます。見えます。
ヒカルさんは前と同じようにsaiの姿を思い浮かべてください。塔矢さんもsaiの姿を想像してみてください。
いいですね?
では、3、2、1」

古戸さんが数え終わるとともに、パチンと小気味良く手を叩く音がした。
なんてことはない行為だが、その音はやけに鳴り渡り、胸がすっとした気がした。

「はい、目を開けてくださって大丈夫です」

たったそれだけでは何も変わらない、はずだった。
指示通り瞼を上げ、その光景に瞠目し、息を飲んだ。

古戸さんの隣には、見知らぬ男性が座っている。
物音一つしなかったのに、今ではたしかに呼気を感じる。
狩衣に烏帽子、床に付くほど長い黒髪。
現代のそれとは思えないが、衣装と云うにはあまりにも板についていた。
僕の反応を見て微笑み、

「初めまして。藤原佐為と申します」

と優美な動作で礼をした。発せられた声は思いのほか低い。
意外なほど若く――しかし不思議な貫禄がある外見だ。
父と同じくらいの年を想像していので驚いたが、見た目通りの年齢ではないのだろう。
平安時代から存在し、本因坊秀策に取り憑いていたという。

その佇まいは欺瞞とは思えない。
進藤を見れば、一つ頷きをよこしてくる。
なるほど、幽霊なのだろう。

「塔矢……アキラです」
「はい、存じ上げています」

彼は玄関での古戸さんの声色を真似た様子で、にこりと笑んだ。
その明るい表情は対局を待ち望み、期待している。

「さあ、打ちましょう。私はこうしてあなたと打つのを楽しみにしていたんです」
「僕もです」

碁盤はここにある。
前回の対局から何度も検討を重ね、シミュレートしてきた。
そのために今日この場を設けた、願った。





「では、ルールを確認しますね」

saiは碁盤の対岸側に座り、そのすぐ隣から古戸さんが明朗に喋る。
互先。持ち時間は3時間。置き石なし。コミは6目半。

「佐為は碁石を持てないので、打つときは指示に従って私が石を置きます。時計も私が止めます。かまいませんか?」
「かまいません」

石を持てないという言葉が重く感じられる。
こんなに鮮明に見えているのに、触れはしないのか。

「ヒカルさん、時計係をお願いできますか」
「うん」
「ニギリも私が、失礼します」

古戸さんが白石を握ったので、黒を一石 盤上に置いた。
結果は奇数。――僕が黒だ。

「お願いします」

頭を下げ合ってから、正面を見据える。
碁打ちの多くがそうであるように、saiも盤を前にして表情を引き締めていた。
凛とすべてを見通すような奥深い思慮の眼差し。
黒を打てば、響くようにすぐさま白が置かれる。

実力者という手応えはすぐに感じられた。問題はそれがどの程度か。
かつて進藤ヒカルの中にいた人物と、ネットのsaiと、目の前の彼が重なり合う。
深い。深い。どこまでも深い。深淵。
それを照らしつけ、切り開く。断ち切り、巻き込み、凌駕せんとする。
戦いに身を投じる。

――最初は頭を撫でられるようだった
次は馬鹿にされているのかと思った。初心者だった進藤が相手と知らず。
その次はパソコンの画面越しに、容赦なく斬りつけられた。
そして、この一年の間、ネット上で3度対局した。
僕は彼の容赦ない刃を受け止め、食い下がることができているだろうか。

難しい局面だが、以前より手応えは上がった。
彼を苦しませることができている。
それでもまだ足りない。高みへの道筋が、まだ。


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