44.あなたにわがまま

「アキラ、お前今月いつが暇?」

その日、進藤は妙に上機嫌だった。
こういうときの彼はいつもとは違った意味で怖い。
調子が乗っていると、堅実さを失うわけでもないのに、
ときに誰も予想できないような奇天烈な――
――それでいて、よく検討すれば筋が通っているという痛快な手を繰り出す。

対局相手はさぞかしやりにくかったことだろう。
定石外れの手に喜ぶのは社くらいのものだ。
実力が伴っても、初手天元を好むのは変わっていない。
あの二人が当たると公式の大事な対局でも奇抜な試合ができあがる。
年に何度か二人で行っているらしい研究会も、実戦に繋がっているのだろう。

「今月何かあるのか?」
「玲奈がお前に会いたいっていうからさ」

大事そうに音に成された“玲奈”という名前が、一体誰を示すのか思い至るのに数秒を要した。
思い至って、saiの名を挙げそうになったのを、慌てて飲み込む。
誰が聞いているかわからない。

「……あのときの」

『藤原』さんか、と声を潜めた。
制服が似合うような、高校生くらいの女の子だった。
その姓は『彼女』にとって偽りであり、『sai』を示すもののはずだ。

「僕に何か用が?」

それはsaiとしてだろうか。それとも彼女自身としてだろうか。
失礼かもしれないが、アキラにとって女性に握手やサイン、指導碁を頼まれるのはよくあることである。
メディアの取り上げ方によって芸能人か何かと勘違いされている節があるが、
仕事として支障ない範囲ではファンサービスにも応えていた。

もしそういうことだとしたら、saiに繋がっている相手だからないがしろにはしない。
あわよくばsaiに……という打算を遥かに上回る条件を提示された。

「面と向かって"佐為"と対局させてくれるってさ」
「……いいのか?」
saiとはネット碁で再戦を果たしたが、越えていない以上、
機会があるかぎり挑みたいと思っている。
だからsaiに近づけるのは願ったり叶ったりだが、
以前進藤に『玲奈に追及すると、もう二度とsaiと打てなくなるかもしれない』と
釘を刺されたので、慎重になるのだ。

「玲奈がいいって言ったからいいんだ」

面白いものが見られるさ と、進藤は意味深に笑った。
そう言われてしまえば、乗らない手はない。
まさか本当の意味で対面――その姿を見られるとは、思いもよらなかった。

進藤にsaiの正体が幽霊だと告げられたときは驚いたが、
自分はその事実を知っている数少ない人間の一人であるということが、
誇らしいと感じるようになったのも事実だった。

***

塔矢アキラさんと会う日程も決まって、私は浮かれていた。
『ヒカルの碁』におけるヒカルのライバルとしての塔矢アキラ。
若くして囲碁界をリードする、鬼才の棋士としての塔矢アキラ。
saiかつ佐為への挑戦者としての塔矢アキラ。
どれをとっても、私には楽しみな面会だった。

ジン君が来ていることも私の機嫌を良くする要素の一つで、
楽しく喋って食事ができそうだ と、思っていたのに。
おもむろにジン君が取り出した話題は、私を凍りつかせるのに十分な威力を持っていた。

「そういえば、次の世界はどこがいい?」

えっ、と声を詰まらせる。
次の世界――それは、ここではないところ。
私は神様になったから、そしてこの世界の神様ではないから、一つの世界に長く留まれない。
『ここ』は永住地ではなくて滞在地だと、知ってはいた。
神様の力を使うと滞在期間が短くなるというのも、つい最近言われたばかりだ。

「もう移動なの!?」

ようやく新たな一歩を踏み出して、さぁここからってところなのに。
できることなら蒔いた種が芽吹いてやがて実を結ぶところまで、見守りたいのに。

「いや。多少無茶をしてもあと半年は確実に安全だと保証できる。
ただ、考えるのにも時間がいるだろうし、準備は早いに越したことがないというわけだ」
「なんだ……」

そういえば今住んでいるこのマンションも、
生活費も、服も、日用品も、すべてジン君が揃えてくれたんだった。
戸籍とか住民票とか通帳とかの手続き関係もあるし、
息絶えたはずの異世界人の私の身体がここにあることも、きっと単純なことではない。
神様とはいえ 私と同じくこの世界の神様ではないジン君が、制限された中で、
これだけのものを手配するのはきっと呪文一つというわけにはいかないんだろう。
実際『準備に数ヶ月かかるから、それまで寝てろ』って言われたし。
だったら今回は数ヶ月以上前から準備しよう というのがジン君の考えなのだろう。

納得の一方で、仮定とはいえ、半年という言葉はずっしりと胸にのしかかった。
最低限に見積もったせいだとしても、つまりは残り一年を切る可能性があるということか。
頭を切り替えて、できるかぎり声を明るく保つように努めて、既知かつ未知の世界に思いを巡らせる。

「えーっと、そうだな、どこがいいかなぁ……」

時間はたくさんあるんだから、今決めなくてもいいんだろうけど、
いつか決めなきゃいけないことだし、これはきっかけだった。

突然言われても思い浮かばない。
いずれきたるみらいだとはわかっていたのに、
この世界を生きることに精一杯で、先のことなんて考えてなかった。

だって、ヒトにとっては世界は一つあれば十分で、むしろ広すぎるくらいだ。
それは私にとっても同様で、
『あの世界』に欠けているものなんてなかった。
『この世界』には『この世界』の喜びがある。
あえて『次の世界』で補わなくちゃいけないものはない。
むしろ失うもののほうが多い。

その代表が――

「ねぇ、佐為も連れていける?」
「難しいな」
「ってことは、無理ではないんだ」

この世界に来て佐為の魂を蘇らせた時点では、先のことまで考えていなかった。
せいぜい私の滞在が終わったら、また他の誰かに憑けるように取りはからえればいいと思っていた。
だって私は、佐為に会いたかったことよりも、
ただここにいる理由が欲しかっただけだったから。
誰かに必要とされたかっただけだから。

今、私は佐為のいない生活が考えられない。
佐為がいなければ、眠れない夜に膝を抱えていたことだろう。
いつのまにか傍にいることが当たり前で、それだけでずいぶん救われていた。
必要としていたのは私のほうだ。

「玲奈、どこかに行くのですか?」
「うん。遠いところに」

この言い方じゃあ、ただの国内あるいは海外旅行にも聞こえる。
佐為はなんの躊躇いもなく、ついてくるつもりでいてくれるだろう。
『難しさ』について条件や制限の相談をジン君とするよりも前に、
私には説明責任があって、願い事がある。

「ねぇ、佐為。私と一緒に来てくれる? 私は旅行をしているの。長い長い、旅行。
半年あるいは一年後、私が行くのは"異世界"というところなの。
簡単には行き来できないところで、ヒカルさんや搭矢名人にも会えないし、
手紙のやりとりや、ネット碁で対局することもできない。
この世界ほど囲碁が発達しているとも、打つ環境が整っているとも限らない。
環境が整っていても、私は他のこともしてみようと思うから、きっと今ほど打たせてはあげられない」

私が呼び寄せたのだし、主だし、守護霊だし、願いを叶えてあげたのだし、
一緒にいてくれてもいいでしょう? という、傲慢な理由は説得力に欠ける。
まだ神の一手を極めていないのだし、私は囲碁が好きだし、
佐為にとっても利益はあるはずでしょう? というのは、思い上がりだ。
他の誰でもなく、佐為に、この終わらない旅の道連れになってほしいというのは、
どうしようもない自分勝手な我が儘だ。

ジン君と条件や制限の相談はともかく、まずは佐為の意志を確認しなくてはいけない。

「いったん旅立ったら、この世界には少なくとも数年は戻ってこない。
戻ってきても、また数年したら別の世界に行ってしまう。
一緒に来てくれるっていうなら、その旅行に付き合ってもらうことになる。
それは未来永劫かもしれないし、とりあえず16年間」

このままつれていくというのは、攫うということに近しい。
佐為にとっての故郷であるこの世界を捨てなくてはいけないのだ。
もしかしたら私みたいに、立ち入り禁止期間がつくかもしれない。

帰りたい場所に帰れない私と違って、佐為は、この世界で生きた。
時代は違うかもしれないけど、いくらでも縁の地があり、思い出があり、
なによりもヒカルさんが、塔矢行洋がいる世界である。

『大切な人がいる場所』なんて、私が喉から手が出るほど欲しくて羨ましいものだ。
それを持っているのに、わざわざ手放すことなんてない。
ネット碁を打たせてあげることなんて、私じゃなくてもできるんだ。
ふたたびヒカルさんに憑かせることも、できるのかもしれない。
それが最良の道かどうかは、本人が決めることだけれども。

「断っても、悪いことはないんだよ。
この世界に残るなら、創造主様に頼んで、
あなたを再びこの世界の運命や輪廻に組み込んでもらう。
きっとそういうこともできるんだと思う。――ねぇ、ジン君。
うん、そうしたらまた新たな誰かに憑くことも、
記憶を持ったまま生まれ変わって新しい人生を歩むことも、きっとできるわ。
そのほうが佐為にとってはいいのかもしれない。
私のわがままに縛られずに囲碁が打てるし、自分の世界を捨てることもない」

選択肢があるのに与えないのは、私が奪ったも同然だ。
私は佐為に漠然とした説明しかしてこなかった。
曖昧な理解で、うやむやなまま、先延ばしにして、
あわよくばそのまま叶えばいいというのが私のずるさだ。
一緒にいるのは、『当然』ではないから、言わなければいけない。
納得を奪ったままでは、騙したままではいられない。

「どうか、選んでくれる?」

意思を尊重したいから、『私を』という言葉を飲み込んだ。
けれど、『どちらか』という言葉もつけられなかった。

「――あなたがいつ、私にわがままを言ったんですか」

長ったらしくてわけのわからない説明が終わるまでちゃんと聞いてくれた後、
答えを出さず、ただ私の言葉尻を捉えた佐為の表情は、意外なほど穏やかだった。

「ちょくちょく我が儘でしょう? 突然気分が沈んで落ち込んだりもするし」
「そんなことありません!」
「少なくとも、次の世界に行ったらもっと我が儘になるよ。
囲碁だけじゃなくて、自分のやりたいことを探したいから」

この世界では佐為に碁を打たせることを最優先してきたけど、
16年間ずっとそれじゃあ、多分だめだ。
次の行き先を決めるのは私なのだから、その世界を楽しめるのがいい。

「そうですか……。安心しました。
では玲奈。私を御供にしてくださいますか?」
「――いいの?」

ほぼ即答だった、佐為の返答に驚く。
気を使わせたんじゃないかとか、説明が不十分だったんじゃないかとか、疑ってしまう。

「囲碁は、たしかに打ちたいです。
でも、それ以上に私はあなたと一緒にいたいんです。自分のために生きるあなたの隣にいられたなら、それでいい」

それは、つまり。
私を選んでくれたってことだ。
幸せってきっとこういうこと。

「あぁでも、たまには一緒に打ちましょうね?」
「もちろん!」


 top 
- ナノ -