閑話2:門脇龍彦

「進藤君」

落ち着いた声に呼び止められ、
真剣みを帯びた視線を受け止めた時点で、
ヒカルは相手のおおよその用件を推定することができた。
そろそろ来る頃だろう、と思っていたのだ。

「門脇さん」

saiの名の片鱗を背負うと覚悟を決めてから、数ヶ月が経つ。
碁打ちとしての正当な誉れとは無関係のところで騒がしかったヒカルの周囲も、
ようやく一定の収束を見せていた。
それを待っていた優しさでもあり、慎重に情報を吟味するための期間でもあったのだろう。

声を掛けてきた男は、門脇五段。
ヒカルよりもひとまわり年上で、プロとしては一年後輩だ。
しかしそれは、過去にただ一つの偶然さえなければ、
同輩あるいは先輩になっていたことも大いにありえたのだと、知っている者は少ない。

門脇はアマチュア時代、学生名人・学生本因坊・学生十傑の三冠を成した実力者である。
ヒカルがプロ試験を受け、そして合格した年、門脇もまた試験を受けようとしていた。
だが、試験の前に肩慣らしとしてヒカル――佐為と対局したことによって、その意思を変えた。
もう一年鍛え直す、と。

「少し話がしたいんだが、今日飲まないか」

門脇も佐為の実力に魅せられた一人だった。
だから『進藤ヒカル』の成績に失望し、
『進藤ヒカル』と再戦したとき、違和感を隠しきれずにいた。

もう六年も前の話だ。
プロとなった門脇は、その後度々ヒカルとも公式に対局した。
一人の棋士として互いに敬意を抱いてはいたが、
白星を勝ち取ったときなど、門脇に「おめでとう」と言われるたび、ヒカルは苦笑いを禁じえなかった。

「いいですよ」

saiの棋譜はネット上でいくらでも手に入る。
あのときの対局と存在の類似を感じることは容易いだろう。
ヒカルが『sai』の弟子だと公表してから、
門脇は"何か"に気づく条件を満たした一人だった。
だから、その表情は『答え合わせ』を求めているようだった。


* * *


酒が入ったほうが口が軽くなるかもしれないと思ったのだろう。
門脇の行きつけだという店に入り、
注文した品が届き、軽く乾杯を終えてから、雑談もそこそこに、彼は切り出した。

「いろいろ考えたが、もしかして最初の対局、打っていたのはsaiじゃないか?」

予想外に正確な答えだったので、ヒカルは思わず口に含んでいたビールでむせた。
それを是と解釈したのか、門脇は己の推論を語る。

「saiのことは以前から知っていたし、塔矢先生との対局も見させてもらった。
進藤君が弟子だと知ったときは納得しかけたが、師弟関係であるということを考えても、
あのときの対局は、当時の進藤君よりも『sai』の打つ碁に限りなく近い」
「佐為が俺と入れ替わって対局してたって?」

saiが何者か知られていないから、ヒカルと瓜二つだとでもいうのか。
ありえない、と強調していうつもりだったのに、門脇は冷静だった。

「そうは言ってない。
君はあのときなんらかの方法でsaiと連絡を取っていたんじゃないのか、ってことだ
俺も当時のことをはっきり覚えているわけじゃないからなんとも言えないが――」

たとえばsaiが見える位置にいて合図を送っていた。たとえば隠し持った携帯電話。あるいは――。
どれもこれもこじつけの仮定だが、六年も経てば当時の細かい状況など覚えていない。
抜け道があったのでは、と勘繰ってしまうのだ。後付けの理屈ならいくらでもつけられる。

「それに二度目に対局したとき、君は自分が『弱くなった』と言っただろ?
だが君の院生の頃から君を知っている人に聞いても、そんなことはないと言われる。
あのときが例外だったというわけだ」

事実なので、反論が思い浮かばない。
だからアリバイとトリックの次は、動機について聞くことにする。

「じゃあなんで、わざわざプロ試験の直前にそんなことをしたと思うんですか」
「……ただの暇潰しかもしれない。
saiは今でも人前に顔を出さないだろ。
強さを持て余して、進藤に代わりに打たせていてもなんら不思議はない」

一応話の筋は通っている。
実際、方法が違うだけで、佐為が打っていたという部分は合っている。
幽霊がヒカルに憑いて打っていただなんてことは想像できるはずがない。
『強い子供』よりも『強い大人(sai)』のほうが納得しやすいのだろう。
門脇は自分の考えが正しいとほぼ確信している。
その真摯な態度に圧されるように、ヒカルは答えた。

「あー……、正解です。
騙すような真似してすみませんでした」

門脇の方を向いて、席に座ったまま頭を下げる。
謝罪は、誠意を見せることでそれ以上の追及を免れるものだ。
互いの記憶が曖昧であるように、それはすでに時効を迎えているのだろう。

「いや、いいんだ。
あれで俺は自分の未熟さに気づくことができた。
言うなれば、今があるのはsaiのおかげだ。
俺が期待したのはsaiだったけれど、その期待自体は間違いじゃなかった」

ネット碁で対局を重ねるsaiの成績はめざましい。
年齢もプロとアマチュアの境も超越した実力を持ち、評価を受けている。
その高みに至ることがヒカルの、人生を懸けた目標となっている。

「それに俺は進藤君のことも尊敬している。
これはこれで真実だし、心から思っていることだ。
俺も、君との差が開かないように精進するよ」

ハハハと苦笑いしたヒカルは、それが謙遜だと思った。
いつでも追い越される可能性はあるし、追い越さなければならない。

「saiの正体は聞かないでおく」
「すみません、そうしてください」
「でも、」
「saiとの対局なら、頼んでおきますよ」
「そうか、ありがとう」

それから、会話はさまざまに移り変わった。
夜も更けた頃、上機嫌な門脇が店の代金を払い、その日はおひらきとなった。


真実だけが正解ではない。
納得できる嘘ならば、それは本人にとっての事実なのだから。
ごまかすことが上手くなったような気がする、とヒカルは思った。


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