40.苦しんだ分だけ、得られるものがあるなら

『時が解決する』だなんて、よく言ったものだ。
その瞳に映るのは現在だけで、その胸に残るのは過ぎ去った日々だけで、
未来を見ることなんて誰もできないというのに。
けれど、いつか未来は現在に移り変わって、現在は過去に変わってしまう。
誰もすり抜けてゆく時の流れをつなぎとめておくことなんてできない。

私が『ヒカルの碁』の世界に来てから、すでに九ヶ月が経っていた。
世界を渡る準備期間だとか、誤差があったことを考えると、元の世界での月日はもっと長い。
その時間の分だけ夏実には、夏実の物語があった。


一ヶ月もすれば、みんなの日常の表面に私の死は影を見せなくなった。
けれど、夏実だけが周囲の流れに取り残されているような気がした。
いつものように授業を受けて、友達と話もするけれど、お昼は誘いも断って、教室の隅で一人で食べていた。
放課後になると早々に帰宅して、あれ以来 部活には行ってなかった。

夏実が部活に来なくなったことを聞いて、部長が心配していた。
けれど忙しいし、うまく声をかけることができなかったようだ。夏実は俯くだけ。

そんなある日、後輩の子たちが勇気を出して、「部活に来てください」と頭を下げて頼んだ。
もともと人数の多い部活ではなかった。
次期部長の私が死んで、夏実までも休んでしまったなら、団体戦で大会に出場するのも厳しい。

「喪に服してるの。ほっといて」

冷たく言い放った夏実に、弱さを垣間見た気がして、私はどうしようもなく胸が痛くなった。
どうしてだろう。思われても、切ないだけで嬉しいと思えない。――夏実が笑わないからだ。
取りつく島もなくて、後輩たちは困ったように視線をさまよわせた。
そんな中で、一人の女の子が一度俯いた顔を上げた。

「それって、違うと思います」
それは私が特に仲良くしていた後輩の子だった。
日ごろから話しやすい子ではあったけど、先輩に逆らうほど気の強い子ではない。
鋭いと恐れられやすい夏実の視線にたじろぎながらも、顔を赤くして一所懸命に言葉を紡いだ。

「玲奈先輩が亡くなってつらいのはわかります。
一番つらいのは夏実先輩でも、私たちも悲しくないわけないんです」
「だからなに」

煩わしい、なにも感じない、氷のように冷たい返答だった。
後輩の瞳がじわりと泣きそうに滲んだ。
でも、それでも、涙がかった声で彼女は訴える。

「このままじゃ高校生活、夏実先輩にとって悲しい思い出で終わるじゃないですか!
うちの囲碁部を一番盛り上げてたのって玲奈先輩でしょう。
囲碁部がなくなったら一番悲しむのは玲奈先輩じゃないんですか。
大会に出て、記録残しましょうよ」

それが、嬉しかった。
私の想いを代弁してくれたと思った。
最初は私に付き合ってくれただけだとしても、夏実も囲碁が好きになっていたはずだ。
好きなのだと思ってほしい。打つことを楽しんでほしい。
楽しいことを失ってほしくない。私が奪いたくない。
願わくは、先輩として私のいない囲碁部を引っぱっていってほしい。
そういうことをわかってくれた子がいた。
報われたと思った。自分の生きてきた世界が誇らしかった。
樹が根を張るように、私が存在した証は見えないところにちゃんと残っている。


他の子も、怯えながらも頷いて、彼女を支持している。
普段の様子からして、夏実に意見するのはとても勇気が要ったはずなのに、
今でも切れ長の視線を少し怖いと思っているはずなのに、逸らさなかった。
ぽろぽろと泣き出しても、――泣き落としはむしろ夏実の心証を悪くする――逃げなかった。

そうして、ついに夏実は口を開いた。
「わかった」と。


次の日、夏実は部活にやってきた。
場を取り仕切ることには慣れているから、見ていて安心できる。
けれどそんな彼女は、久しぶりに碁盤の前に座り、石に触れて、
おそらく初めて人前で涙を見せた。
拭っても拭っても落ちてくる透明な雫。
ずっと押さえ込んでいたものが溢れ出したように思えた。
誰も何も言わなかった。――もう大丈夫。


その年、我が囲碁部は団体戦で準決勝まで駒を進め、そして敗退した。
夏実はクラスの友達に混ざってお昼を食べるようになっていた。
私の知らない話題で、以前のように笑った。

せつなくないとは、言わない。

けれど、傍にいない人を重んじるのは困難なことだ。
感情は荒波のようなもので、制御できないほど高ぶるのに、ずっとその状態を留めておくことはできない。
そのときがどんなに辛くても、いつか嵐は止むものだ。
夏実の心が凪くのは、私の名残が止んだときだというのなら、
私のことを忘れてしまってもいいから、夏実に幸せになってほしいと思える。

夏実は夏実の人生を歩む。私は私の道の上で、幸せを探そう。
私はこの世界に来てからずっと寂しくて、思い出にしがみついていた。
本当は『帰ること』じゃなくて『もう一度夏実の顔を見ること』を目標に定めるべきだったの。
だって私の居場所はもうそこにはないから。
故郷ではあるけれど、日常的に帰れるではなくなるのだ。

私は夏実のことが好きだから、また会いたいと思うし、
謝りたいこともお礼をいいたいこともたくさんある。
そのために、16年後を待ち望む。
願わくば私が彼女の人生の肥やしになりますようにと、祈る。

思い出はきっといつか風化して、忘れられるものだけれど、
時間を共有したという事実は消えないと信じたい。
もしも心の片隅に残しておいて、たまに思い出してくれるなら嬉しい。



流れる時間の中に身をおいて、私もいろんなことが整理できた。
長い長い夢から意識を浮上させて、目を開ける。

この世界では、ソファに横たわった私を佐為が覗き込んでいた。


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