ヒカルさんと碁会所に向かっていると、街中の横断歩道で『知っている』人を見かけた。
派手な服装は遠くからでもよく目立ち、すぐにわかった。
あ、と声を上げると、ヒカルさんがその人に気づき、同時にその人もこちらに気づいた。
「加賀!」
「おー、進藤じゃねーか」
手に扇子を持って加賀さんはこちらに近づいてきて、私をじろじろと見つめた。
そして大げさにショックを受けたようなリアクションして見せた。
「進藤……お前……」
「言っとくけど玲奈は彼女とかじゃないからな」
「ちっ。ンなことわかってんだよ。どう見ても未成年だろ」
面白みのないやつ、と悪づいたので、からかうつもりだったらしい。
私は目が合ったので、頭を下げた。
「はじめまして、古戸玲奈です。
えーっと、将棋の加賀プロですよね?」
「お、俺のこと知ってんのか。なんだ、将棋を指すのか?」
「いいえ、たまたま新聞で見かけたので」
それはそれで本当だが、もともと知っていたことにしないと、
さっき声を上げてしまったことの言い訳にならない。
ヒカルさんは私の思惑に納得してくれたようだった。
「玲奈は碁を打つんだ。これから碁会所に行くんだぜ」
「……やめろやめろ、囲碁なんて。将棋のほうが面白いぜ?」
「えーっと、そうですか?」
それはどう考えてもプロ棋士の前で言うことじゃないだろう。
と思うのだけど、ヒカルさんは慣れているようで、普通に怒っている。
「余計なこというな!」
「ほんとのことだぜ。囲碁も強い俺様が言うんだから間違いない」
将棋かあ、ルールはいちおうわかるけど、真剣に取り組んだことがないから戦法とかはさっぱりだ。
やってみれば面白いかもしれないけど、せっかく囲碁の神様が治める世界にいるのに。
「よし、こうしよう。俺様と一局打って、勝ったら次は将棋で一局指す」
「……加賀、お前暇なの?」
「ちょうどな。ちなみに勝ったら俺様のサインをやろう」
ヒカルさんはとっても迷惑そうな顔をしたけれど、
私にとっては欲しいような、欲しくないような、だ。
新聞で見て覚えていたと言ったからの気遣いだろうな。
記念に持っているのも面白いかもしれない。
負けて、一度将棋をやってみるのもきっといい体験だし、
囲碁を一局打ってもらえるというのは、
最近いろんな人との対局を心がけている私には大変魅力的だ。
加賀さんの実力がたしかなことは知っているわけだし。
「ありがとうございます! じゃあそれで行きましょう」
「玲奈!? ……まあ、玲奈がいいっていうならそれでいいけど」
「決まりだな」
それから、ヒカルさんは面倒なことになるから、いつものところではなくて、
てきとうにここから近いところを見つけて入ると決めた。
そして碁会所に向かう途中、
私はふと思いついて佐為に耳打ちをした。
「ねえ佐為、どっちが打とうか?」
「はい……?」
「加賀さんって、佐為も知っている人でしょう? せっかくの機会だし、打ちたいでしょう?」
「ええ、まあそりゃあ……」
「いつもと違うところに行くみたいだし、初対面だし、そう会うこともないだろうから、
一度だけなら天才少女を演じてあげてもいいよ」
そう告げると、佐為は誘惑と戦っていた。
私のことを気にかける気持ちと、打ちたい気持ち。
戦わせているのは私なんだから、性格が悪いと思ってくれていいよ。
私はこういう役目のほうが似合っている、と微笑ましかった。
「えーっと……」
「進藤本因坊じゃないか!」
気づくと私たちは二人からいくらか離れた後ろを歩いていて、
碁会所のあるビルの前で、ヒカルさんは知らないおじさんに話しかけられていた。
本因坊になってからヒカルさんの知名度も注目度も一気に増した。
……そう、本因坊なんだよね。
普段何気ない顔をされるから気にかからないけれど、そんなすごい人の休日を潰している私だ。
ヒカルさんが、肯定すると、賛辞の言葉が出てくるかと思いきや、そのおじさんはまずその名を出した。
「saiの弟子というのは本当か!?」
「――ええ、そうです」
「っ! saiの正体は何者なんだ!」
どうやらsaiの熱狂的なファンらしい。
ヒカルさんは慣れている、というふうに黙秘を決め込んだ。
するとその人はついにヒカルさんの胸倉を掴んだ。
おじさんの顔が赤いところを見ると酒を飲んでいたか、もともと気が荒ぶっていたんだろう。
「言えねえっていうのか! 調子に乗るなよ。
saiはアンタが一人で独占していい存在じゃないんだよ!」
「いいかげんにしろ」
隣にいた加賀さんが男の頭を扇子で叩いた。
私は、ヒカルさんはたびたびこんな言葉を浴びているのだろうか、と考えて動けなかった。
「お前本当に囲碁ファンか?
saiが世界的に桁外れで強いのはわかるが、
ここにいる進藤だって尊敬されて然るべきだろうが」
「うるせえ! 外野は黙ってろ!」
「――俺がsaiだと言っても、か?」
「なっ……!」
男は顔を青くして、加賀さんを凝視した。
加賀さんは呆れたように言い捨てた。
「嘘だ、バカ。将棋界のエースと言われているこの加賀鉄男を知らねーのか」
「しょ、将棋!?」
「ただしお前よりも碁が強いぞ」
「はぁ!?んだと!」
「なんならこれからで一局打ってやろうか」
なにやら話が収集の付かない方向へ向かっている。
喧嘩を吹っかけるのが得意だなんて、あなたはチンピラか。
このままでは仕方ないので、私は加賀さんを呼んだ。
「ちょっと、加賀さん。私と打ってくれるんじゃなかったんですか?」
「ああ、そうだったな。てめーは進藤に指導碁でも打ってもらえ」
「な! なんで俺がこのおっさんと打たなきゃいけないんだよ!」
「こてんぱんにすればさすがに偉そうな口叩けないだろうが」
どうせ他に対局する相手も決まっていないんだから、とヒカルさんはしぶしぶ納得した。
それから、佐為は「やっぱり玲奈が打ってください」と言った。
まあ、saiのことを知っている人がいるなら下手な真似はできないよね。
私は「でも加賀さんのサインが欲しいから、少しだけ助けてね」と笑った。
ヒカルさんは置かれた石を次々に取り、見事に圧勝していた。