閑話1:加賀鉄男

ヒカルさんと碁会所に向かっていると、街中の横断歩道で『知っている』人を見かけた。
派手な服装は遠くからでもよく目立ち、すぐにわかった。
あ、と声を上げると、ヒカルさんがその人に気づき、同時にその人もこちらに気づいた。

「加賀!」
「おー、進藤じゃねーか」

手に扇子を持って加賀さんはこちらに近づいてきて、私をじろじろと見つめた。
そして大げさにショックを受けたようなリアクションして見せた。

「進藤……お前……」
「言っとくけど玲奈は彼女とかじゃないからな」
「ちっ。ンなことわかってんだよ。どう見ても未成年だろ」

面白みのないやつ、と悪づいたので、からかうつもりだったらしい。
私は目が合ったので、頭を下げた。

「はじめまして、古戸玲奈です。
えーっと、将棋の加賀プロですよね?」
「お、俺のこと知ってんのか。なんだ、将棋を指すのか?」
「いいえ、たまたま新聞で見かけたので」

それはそれで本当だが、もともと知っていたことにしないと、
さっき声を上げてしまったことの言い訳にならない。
ヒカルさんは私の思惑に納得してくれたようだった。

「玲奈は碁を打つんだ。これから碁会所に行くんだぜ」
「……やめろやめろ、囲碁なんて。将棋のほうが面白いぜ?」
「えーっと、そうですか?」

それはどう考えてもプロ棋士の前で言うことじゃないだろう。
と思うのだけど、ヒカルさんは慣れているようで、普通に怒っている。

「余計なこというな!」
「ほんとのことだぜ。囲碁も強い俺様が言うんだから間違いない」

将棋かあ、ルールはいちおうわかるけど、真剣に取り組んだことがないから戦法とかはさっぱりだ。
やってみれば面白いかもしれないけど、せっかく囲碁の神様が治める世界にいるのに。

「よし、こうしよう。俺様と一局打って、勝ったら次は将棋で一局指す」
「……加賀、お前暇なの?」
「ちょうどな。ちなみに勝ったら俺様のサインをやろう」

ヒカルさんはとっても迷惑そうな顔をしたけれど、
私にとっては欲しいような、欲しくないような、だ。
新聞で見て覚えていたと言ったからの気遣いだろうな。
記念に持っているのも面白いかもしれない。

負けて、一度将棋をやってみるのもきっといい体験だし、
囲碁を一局打ってもらえるというのは、
最近いろんな人との対局を心がけている私には大変魅力的だ。
加賀さんの実力がたしかなことは知っているわけだし。

「ありがとうございます! じゃあそれで行きましょう」
「玲奈!? ……まあ、玲奈がいいっていうならそれでいいけど」
「決まりだな」

それから、ヒカルさんは面倒なことになるから、いつものところではなくて、
てきとうにここから近いところを見つけて入ると決めた。
そして碁会所に向かう途中、
私はふと思いついて佐為に耳打ちをした。

「ねえ佐為、どっちが打とうか?」
「はい……?」
「加賀さんって、佐為も知っている人でしょう? せっかくの機会だし、打ちたいでしょう?」
「ええ、まあそりゃあ……」
「いつもと違うところに行くみたいだし、初対面だし、そう会うこともないだろうから、
一度だけなら天才少女を演じてあげてもいいよ」

そう告げると、佐為は誘惑と戦っていた。
私のことを気にかける気持ちと、打ちたい気持ち。
戦わせているのは私なんだから、性格が悪いと思ってくれていいよ。
私はこういう役目のほうが似合っている、と微笑ましかった。

「えーっと……」
「進藤本因坊じゃないか!」

気づくと私たちは二人からいくらか離れた後ろを歩いていて、
碁会所のあるビルの前で、ヒカルさんは知らないおじさんに話しかけられていた。
本因坊になってからヒカルさんの知名度も注目度も一気に増した。
……そう、本因坊なんだよね。
普段何気ない顔をされるから気にかからないけれど、そんなすごい人の休日を潰している私だ。

ヒカルさんが、肯定すると、賛辞の言葉が出てくるかと思いきや、そのおじさんはまずその名を出した。

「saiの弟子というのは本当か!?」
「――ええ、そうです」
「っ! saiの正体は何者なんだ!」

どうやらsaiの熱狂的なファンらしい。
ヒカルさんは慣れている、というふうに黙秘を決め込んだ。
するとその人はついにヒカルさんの胸倉を掴んだ。
おじさんの顔が赤いところを見ると酒を飲んでいたか、もともと気が荒ぶっていたんだろう。

「言えねえっていうのか! 調子に乗るなよ。
saiはアンタが一人で独占していい存在じゃないんだよ!」
「いいかげんにしろ」

隣にいた加賀さんが男の頭を扇子で叩いた。
私は、ヒカルさんはたびたびこんな言葉を浴びているのだろうか、と考えて動けなかった。

「お前本当に囲碁ファンか?
saiが世界的に桁外れで強いのはわかるが、
ここにいる進藤だって尊敬されて然るべきだろうが」
「うるせえ! 外野は黙ってろ!」
「――俺がsaiだと言っても、か?」
「なっ……!」

男は顔を青くして、加賀さんを凝視した。
加賀さんは呆れたように言い捨てた。

「嘘だ、バカ。将棋界のエースと言われているこの加賀鉄男を知らねーのか」
「しょ、将棋!?」
「ただしお前よりも碁が強いぞ」
「はぁ!?んだと!」
「なんならこれからで一局打ってやろうか」

なにやら話が収集の付かない方向へ向かっている。
喧嘩を吹っかけるのが得意だなんて、あなたはチンピラか。
このままでは仕方ないので、私は加賀さんを呼んだ。

「ちょっと、加賀さん。私と打ってくれるんじゃなかったんですか?」
「ああ、そうだったな。てめーは進藤に指導碁でも打ってもらえ」
「な! なんで俺がこのおっさんと打たなきゃいけないんだよ!」
「こてんぱんにすればさすがに偉そうな口叩けないだろうが」

どうせ他に対局する相手も決まっていないんだから、とヒカルさんはしぶしぶ納得した。
それから、佐為は「やっぱり玲奈が打ってください」と言った。
まあ、saiのことを知っている人がいるなら下手な真似はできないよね。
私は「でも加賀さんのサインが欲しいから、少しだけ助けてね」と笑った。

ヒカルさんは置かれた石を次々に取り、見事に圧勝していた。


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