36.まだ、思い出にはできない

それは土曜日の夜、食卓でのこと。
向い側に座っているジン君に、「お願いがあるんだけど」と切り出した。

「なんだ、言ってみろ」
「夏実の様子を見てきてくれないかな?」

問うと、ジン君は目を瞬かせた。
私がずっと考えていた案件だった。

佐為と塔矢行洋氏の対局が終わって、私は一つの役目を果たしたような気持ちになっていた。
肩の荷が下りて、ようやく落ち着いていろんなことを受け止めたり考えたりできる余裕が出来た。
目を逸らさずに考えられたのは、ジン君が突きつけてくれたおかげかもしれない。
それで、思い至ったことがある。
みんなは今どうしているだろう、と。

生きていたそれまでの日常を、綺麗な思い出として愛しむことがあった。
さみしくて、辛くて、取り戻したくて、手に入れたくて、優しい記憶に慰められて、耐えているつもりだった。
16年の月日を待ち望んでいた。早く帰りたいのにって思っていた。
その場所では変わらない日常が繰り広げられていて、自分だけがその場から切り取られていると思っていた。

けれど、よく考えれば、私が死んだという事実は私にだけ降りかかったわけではないのだ。
不思議なことに、念頭から抜けていた。
痛みも苦しみもなく絶命したせいか、通常の『死』の実感をついに得られなかったのだ。
私のお葬式が執り行われただろうとか、泣いた人がいるだろうか、とか、そういうことを考えていなかった。
私が世界を去ったなら、私が去った世界というのが存在しているのだ。
身近な人間の『死』を突きつけられた私の大切な人が、生きているのだ。

「玲奈の友人ですか?」
「うん。そう、親友なの」

私は私で、さみしかったりどうしようもなかったりするけれど、奇跡を授かって別の世界で生きていて、
それを、みんなは知らない。取り残されたほうには、また別の悲しみがある。
そんな苦しみを味あわせていると思うと、心配になる。

夏実は、責任感が強くて頼りがいがあるけれど、主張を貫けば反感を持たれるし、
全部背負おうとして悩みも自分の内側に溜め込むタイプだ。
私はそんな夏実が好きだから一緒にいた。今、夏実は誰と一緒にいるんだろう?
傍にいてフォローすると決めたのに、不本意な事態の訪れが、夏実への裏切りのように思えてきた。

また全部背負おうとしてないよね? 私よりも思い悩んで辛い思いをしてない?
今誰が隣にいるの。誰か、ちゃんとあの子を支えていますか。

気づけば、もうとっくに大会も終わった時期だ。
後輩はどれくらい強くなったのかなあ。ちゃんとベストを尽くせたのかなあ。私たちの目標を達成してくれたのかなあ。
私がそこにいないのは、ひたすら悔しいけれど、結果を知りたい。
いつか会いに行くよって伝えたい。待っててって、最期に伝えられたら良かったのに。

それはもう無理だから、せめて伝言をつたえられたら。
我侭が許されるといわれたから、これが一番の望みだった。
伝言が無理なら、ほんとうにただ様子を見てきてほしいんだ。
私はそういう面で無知になりたくない。
両親も心配だけど、夏実のことが一番気になった。
けれど、ジン君は私の眼を見ながら、嫌なデジャブを抱かせた。

「できない」
「……どうして」

望みを全否定されて、私はほとんど反射で聞いた。
すでに諦めが胸を占めていたのは、慣れてしまったのと、駄目で元々っていう気持ちが最初からあったのかもしれない。
ジン君は説明口調に入った。

「俺は、お前が属していた世界から、お前を奪った。
神に召し上げるの過程は存在への干渉であり、
構成要素が抜けて開いた穴を塞ぐのにも、部外者として許されない強さの力を使った。
だから俺は、お前がかつていた世界にしばらくは立ち寄れない」

最初と最後の一文ずつだけなんとか理解できた。
そうか、ジン君は私を神様に召し上げたから、私が元いた世界に立ち入り禁止になったのね。
相変わらず自覚がないままだけど、ただの人間を神様にするのはやっぱりおおごとらしい。
私のためのことのせい、だと思うと、それ以上は望めなかった。

「せめてこの世界に来る前に、一瞬でもいいから夏実の顔を見に行くんだった」

区切りが何もないまま、生活は一変した。
夏実の姿を最後に焼き付けておけば、なにか励みになったかもしれないのに。
その思考に平行して、「言い訳だ」と思った。

「無茶だな。16年間という年月は所属を持たない神が一つの世界に留まる限界をすでに超えていた」
「じゃあ幽霊になればあの世界に留まって夏実を見守れた?」
「――お前らしくない弱音だな。生きたいと望んだのはお前だ」

集中力が途切れたみたいに、思考が穴だらけになる。
スランプらしいスランプなのだ。意味なんかなく、ただ零れ落ちただけ。

「わかった。わかってる。考え方が変わったわけじゃないの。再確認しただけ」

強がったけど涙が滲んで、佐為が慌てていた。

「ほら玲奈、明日は碁会所に行く日じゃないですか。楽しみにしていたでしょう?」
「ん。楽しみ、だよ」

気遣われて、笑顔を作る。
嫌な感じではない。佐為がいてくれてよかった。
最後にジン君が約束してくれた。

「俺が直接は行けなくても、機会があれば様子を窺ってやる」
「ありがとう。期待してる」

即答して、自然に笑った。


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