永夏と秀英が矢継ぎ早に質問を浴びせたせいもあり、三人はすっかり話し込んでしまった。
手持ち無沙汰に立っていた河合は、去り際を察し、退散した。
進藤が詫びていたが、高永夏と間近で話したとなれば、いい話の種になるだろう。
「そういえば、進藤、お前本因坊になったそうだな」
ふいに話題が途切れた頃、永夏が言ったが、
そのどこか白々しい言い方に秀英は疑問を抱かずにはいられなかった。
もう一ヶ月近く前のニュースだ。
教えたのは秀英だが、永夏は進藤の実力なら可能だ、と予測さえしていたはずだ。
素直に祝えないのは彼の高いプライドのせいだろうか。
本因坊といえば、棋聖・名人に並ぶ日本の三大タイトルの一つだ。
秀策に異常なほどこだわっていた進藤にはお似合いだ、と秀英は思う。
しかし、タイトルを手にするということの重みは国が違えど変わらないだろう。
それは進藤の努力と実力の賜物だ。
昼食の一つを奢ってやってもいいと秀英は思った。
進藤は誇らしげに笑った。
「これでやっとトップ棋士の仲間入りだぜ」
「ふざけるな」
なぜか永夏が声を荒げたために、進藤はえっ、と呆けた。
これには秀英も驚き、永夏を見た。すると、彼は尊大に言い放った。
「たとえまぐれでも、俺に勝ったあの時点からお前はとうにトップ棋士だ」
それを聞いて、秀英はきゅっと胸が引き締まる思いだった。
永夏は口に出る言葉や態度がどうであれ、心から進藤を認めていることはわかっている。
そして、自分がその視野に入らないことも。
それは秀英の向上心と自尊心を大いに刺激した。
進藤も、それが永夏の最大限の心からの賞賛だとわかっていて、照れながらへらりと笑った。
すると永夏は強い口調で追及した。
「お前は口惜しくないのか」
「くやしい?」
「saiの弟子だと名乗った瞬間から、お前の挙げた功績にはsaiが付いて回る。
実力で掴み取った弱冠にして本因坊という快挙も、塔矢行洋に再び勝利したsaiの陰に隠れる」
それをいうなら高永夏は弱冠にして世界の頂点だが、ここに自分の功績の話題を挟む気はないらしい。
秀英はその指摘に驚いた。
たしかに韓国で話題になるのはsaiのことだったし、永夏が開口一番に口にしたのもsaiの話だった。
その点を考えると永夏は矛盾しているのかもしれないが、
saiを追う気持ちも本物で、だからこそ進藤に問うているのだろう。
重圧を抱えきることができるのか、と。
進藤は、臆することなく言ってのけた。
「アキラと同じ立場になっただけだ。今、アイツを塔矢先生の息子だからって言う奴なんかいないだろ?
saiがいても、俺が俺として評価されるくらい強くなればいい」
「それがどんなに困難かわかっているのか?」
saiの存在は大きい。
プロではなく、素性を明かさないにもかかわらず、圧倒的な強さゆえに世界中に知られ、評価されている。
絶対唯一、いわば、プロ棋士を超越した存在だ。
「わかってるさ。saiの重みは俺が一番」
「じゃあなんでわざわざそんな苦労を背負うんだ」
長年、saiはネット上だけの正体不明の存在だった。
手段がなければ探すことも追及することもできない。
そんなバランスの上に成り立っていた。
進藤の行いは、抽象的だったsaiの存在を具体化することだった。
「saiはプロと対局するべきだった」
「それは認める。けれどお前が仲介に入る必要があったのか?」
saiに対局を申し込むプロ棋士は数多くいることは既に証明された。
放って置いても、いずれ現在のような体制が出来上がっていたかもしれない。
「塔矢先生との対局を控えてて、無駄な時間が惜しかった」
「お前はsaiのマネージャーにでもなる気か?」
「違う。今までのは、恩返しみたいなもんなんだ」
「恩返し?」
「そう、俺に出来ることならなんでもよかった。役に立ちたかったんだ」
だから全部自己満足だ、と進藤は笑った。
吹っ切れたような翳りのない表情だった。
これまでの進藤に翳りがあったのかと聞かれればそうではないのに、なぜかそう思った。
「自己満足でも、借りを返さないと負い目のままだ。
だから借りを返して、俺は対等な立場で、saiをいつか倒す」
その宣言は夢でも希望的観測ではなく、あくまで現実的な目標に聞こえた。
塔矢行洋さえ倒したsaiだ、どこまで食らいついていけるかが一般的な焦点のはずだった。
『対局してみたい』という興味におさまってしまうのが通常だった。
ここ数ヶ月の進藤の好調の理由をその眼光に見た気がした。
俺だって、と秀英は思う。
秀英も評価されるべき成績は持っているのだ。
ただ、身近にある壁があまりにも大きく、そしてそんな彼にライバル視させる存在は事足りていた。
強くなりたいという思いは同じなのに、永夏を差し置いて進藤にsaiとの対局を申し込むことには躊躇ってしまった。
けれど今、永夏に遠慮する必要がなくなった。
「――進藤! 俺もsaiと対局させろ!」
挑みたい。
秀策の生まれ変わりとさえ言われている彼に、
自分の力がどこまで通用するのか試したい。
それは世界中の全ての棋士に共通する思いだった。