34.いつか届くと信じて

「進藤!」

日韓交流戦の会場である都内のホテルのロビーに進藤の姿を見つけると、
高永夏(コ・ヨンハ)は、一直線に歩み寄って、進藤と話をしていた男の腕を掴んで問いただした。

「あんたがsaiか?」

突然割り込んできた長身の美男子に、進藤とその男はぽかんと口を開けた。
そんな暴挙に出た永夏の思惑を知る洪秀英(ホン・スヨン)は、彼を追いかけてフォローする義務に溜息を吐いた。

プロ引退後も世界最強を謳われ続けている塔矢行洋を倒した伝説のネットの棋士、sai。
復活を耳にしたのは四ヶ月近く前で、進藤が弟子だと知ったのはその直後だ。
saiは先日塔矢行洋と再戦を果たし、勝利した。
以来、永夏はsaiを追っている。日本に来るのも待ちわびていたのだ。

日本に来る機会が増えた頃に、永夏に熱心に日本語を教えたことを今更になって後悔した。
かつて言語の壁に阻まれたトラブルが生じたからだったが、流暢になった今は、自在に操れるからこそのトラブルが生じる。
ようは誤解を招きやすい彼の性質が問題なのだろう。

「高永夏!」
「永夏、お前、約一年ぶりに会って突然それかよ。河合さんがsaiだって? なんで」
「saiっつうとあれだよな、この前塔矢行洋を倒した。こいつの師匠だっていう話だけど全然口を割らねえ。
急になんだってんだ。っていうかアンタ高永夏だろ? アンタの活躍は俺も常日頃」

韓国最強の棋士を前にして、河合という男は浮ついていた。
日本でも、高永夏は有名人である。
実力ゆえに囲碁ファンはもちろん、秀麗で目立つ容貌は存在感があり、韓流ブームも手伝って、囲碁に関心がない女性にも人気だ。
だから現在も、ロビーの視線を一人で集めている。
注目されているのには慣れていると言わんばかりに、気にせず質問を重ねる。

「違うのか。嘘は言ってないだろうな?」
「当たり前だ。河合さんは俺よりずっと弱いぜ」
「プロと比べるなバカヤロー」

どうやらプロではない知り合いらしいので、河合の主張は最もだ。
彼らは今や世界に名だたる棋士二人なのだ。
永夏は十代の頃『二年で世界の頂点に立つ』という宣言したとおり、君臨してみせた。
ゆえに現在も、プロの世界での国際的なトップは彼だという意見が色濃い。
そして進藤は戦績は及ばずとも、たった一度とはいえ公式に、プライベートでは何度か、その永夏を負かしているのだ。
彼らを上回ると断言できる棋士はプロの中でもそういない。

後ろ暗いところのなさそうな全否定に、永夏はようやく納得したらしく、河合の腕を放して、短く非礼を詫びた。
問答無用で話を中断させたのだから非常識どころの話ではない。
進藤が説明を求める。

「なんで河合さんがsaiだと思ったんだ?」
「ふん。saiについて今わかってることは日本人ということと、お前の知り合いということくらいだ。この方法が一番saiに行き当たる確率が高い」
「はあっ!? それだけ? ってことはお前、俺の知り合い全員に手当たりしだい同じ質問ぶつけるつもりかよ!」
「目の前にsaiがいることを考えたら容易い賭けだ」

悪びれず持論を語る永夏は相変わらずの身勝手さだ。
初めての北斗杯で、不慮の事故で受けた誤解を、解くどころか挑発して進藤の逆上を煽ったあの頃と変わらない。
むしろ実力に伴って地位が確立されると共に、遠慮が減ったのか、悪化している。
行動力があるのはいいことかもしれないが、自信と自負を持っている分、時には手段を選ばない。傍若無人とはまさにこのことだろう。
永夏に形振り構わなくさせるsaiの存在の大きさも評価するべきである。
やはり自分が止めなくてはいけないらしい、と秀英は背後から永夏の肩を叩いた。

「永夏! いいかげんにしなよ」
「秀英、久しぶりだな」
「久しぶりだ進藤。ごめん、永夏が」

韓国むこうでも日本人の棋士に会うと、saiのことを聞いてたんだ、と言った秀英に、
本国でも我が道を突き進んでいたらしい永夏に、進藤は目を丸くしてから、笑い出した。

「お前はsaiか、って? うわ、いい迷惑だな」
「馬鹿にするなら直接聞こう。進藤、saiは何者だ? 対局させろ」

容貌が整っているだけに、永夏の真剣な眼差しは有無を言わせない迫力がある。
けれど進藤は半笑いのままオーケイした。saiの話題は手馴れているのだろう。

「対局は大歓迎。正体は教えないけど」
「秀英の電話でも答えなかったらしいな。そんなことだと思っていた」
「だから実力行使かよ」
「世界中が知りたがっているsaiの正体を隠し通しているんだ、お前に非難する資格は無い」
「……saiにも事情があるし、プライバシーがある」

進藤は幾分か声を低くして反論した。
資格、とまで言われては多少気に障ったようだった。
あれだけの強さを持ちながら表に出てこないsaiだ。
『出てこれない』のだとしたら、正体を追い求めるのは無神経なのかもしれない。
すべてを知っているはずの進藤には進藤の言い分があるのだろう。

永夏の言葉は、あまりにまっすぐで、誤解を生みやすく人を傷つけることもある。
それを秀英がひやひやしながら見守っていると、永夏は怯むことなく言い返した。

「そんなことはわかっている。
だから誰もが、強行にお前を取り調べることもなく、尋ねるに留まっているんだろ。
お前という手がかりが出来た今、探偵でも雇えばsaiの素性を割るのは不可能ではない。
けれど、そんなことをしては二度とsaiが現れなくなるとわかっているから誰もやらないんだ」
「ああ、そっか」

進藤はあっさりと納得し、その声があまりに穏やかだったので、秀英は驚いた。

進藤の囲碁の成長速度には目を見張るものがあるのは周知の事実だ。
そして、盤上で強さを追い求める様は、鬼気迫るほど凄まじく鋭敏だった。
いくら強くなっても足りないと言わんばかりに、まるで大きな責務のように、彼は強さを吸収していった。
それで、高みにある実力者たちに次々と追いつき、追い越していったのだ。

たしか、初めて対局したときはそんなふうではなかったはずだと思い出す。
初めての北斗杯で永夏に負けた頃――もしくはsaiの消滅した頃から、進藤はおそらく変わったのだ。
電話でsaiのことを問いただしたときも、「絶対に正体は明かさない」と頑なだった。
だから、慈愛さえ感じる微笑は、意外としか言いようがなかった。

「あいつは世界中に認められて、見守られてるんだな」

満足げな進藤は、また一皮剥けたようだ。
その言葉は、saiを、まるで何よりも尊いもののように感じさせた。


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