33.果てない夢

「ここまでか」

長い沈黙の末、塔矢行洋は重い口を開いた。
彼の目の前にはパソコンのディスプレイがあり、複雑な棋譜が完成している。
そう、これで『完成』なのだ。
おもむろにマウスを操作し、画面上に[終局]と書かれたボタンをクリックした。
返答を待つまでもないだろう。
『彼』は誰よりも本質を見抜いているはずなのだから。


囲碁に関連するパソコンの動作なら、プロを引退してから覚えた。
今では慣れたものなので、誰かの手助けの必要は無い。
だからこの日、対局中は部屋を閉め切って他者が入ることを禁じた。

集中したいというのは言い訳だろう。プロの対局は無人ではなかったのだから。
けれどあえて語るなら、この対局は特別なのだ。長年待ちわびていた。
まるで侵されがたい聖域のようなものだ、と思う。
対局相手である『彼』は目の前にはいないし、インターネットを通じてというなら世界中に観戦者がいるだろう。
けれど、一手一手を通じて、当人同士の間に行き来する意志というものがある。
そこに余計な干渉が入ることを嫌ったのだろう。


静かに目蓋を下ろして、完成したばかりの棋譜を回顧する。
また、あと一歩及ばなかった。
けれど不思議なことに、胸を占めているのはひどく満ち足りた思いだった。
持てる力の全てを出し尽くした、どれも更なる高みを求めて、洗練された手だったと思うからこそだ。
そして、saiがまたその上を行ったというだけのこと。
たとえ歴史に刻まれても、恥じることない一局だったのだ。
『神の一手』を垣間見るほどの。

口惜しさがないわけではない。僅差だったと言えるのだ。
六年もの年月を『彼』との対局に勝つことを念頭に置いてきた。
けれど、終わってしまった今は、勝敗に固執することがこの対局の価値ではなかった。

自分を包んでいる感情が『感謝』と『誇り』だと気づいた。
プロというしがらみの中に囚われていた頃ならばありえなかったかもしれない。
けれど敗北は恥ではないと知った。そこから学ぶことがあるのだから。
これから何千局でも打てばいい。
生涯を碁に捧げると決めたのだから。

すべてはここから始まるのだ。

だから碁は面白い。
この年になっても、まだ棋力は未完成なのだと、目の前には無限の可能性が広がっているのだと、示される。
"此処"はまだ強さの終着点ではなかった。
ゆえに、先に歩んでいける。さらなる高みを目指す。
それは孤高の道ではない。対等たる『彼』がいるのだから。


画面を見ると、投了の文字が表示されたまま移り変わっていない。
つまり『彼』――『sai』はまだパソコンの前にいるのだろう。

問いたいことはいくらでもある。
――何者なのか、何故六年もの間姿を現さなかったのか。けれど、それらはふさわしくない。
約束があるとか、saiがその傾向の質問を嫌うからとか、そうではない。
そんなことよりも、碁打ちが語らいたいのはやはり碁のことなのだ。
検討したい、意見を尋ねたいと思う。そして、何度でも再戦したいと願う。
インターネット上のやりとりには不自由だが、厭んでもいられない。
接触する機会を逃す手はないのだ。

『検討』をクリックしようとした途端、画面に文字が現れた。
saiだ。

[ ユメノヨウナ ココロオドル タイキョクデシタ ヨロシケレバ コレカラ ケントウヲ シマショウ ]

願ってもない申し出だったので、快く了承した。



終局確認の文字が表示された。
佐為が頷いたのを見て、OKをクリックすると、画面が勝手に整地を始める。
複雑な盤面だけれど、寄せまで終わっているから、さすがの私でも勝敗を判断することは出来そうなものだ。
でも、あまりにも僅差だったから、自信はない。
だから黒が勝ったと知った瞬間、歓喜の声を上げた。

佐為を振り返ると、彼はただ画面を注視していた。
そこにいる彼は、まぎれもなく世界最強の棋士だった。
思わず声を掛けるのを躊躇ってしまうくらい、まるで外界を寄せつけない張り詰めた空気を持っていた。
瞳が見据えるのは対局相手である塔矢行洋氏に他ならない。

私なんか視界に入ってないんだと気づいて、手放しに賞賛の言葉を贈ることができなかった。
長い激戦は、まだ余韻を残している。当人たちの間で交わされた意志を私は垣間見ることができない。
現に私は、彼らの対局を機械的に仲介しながら、傍観していただけだ。

次元が違いすぎて、口出しはおろか、どれだけ考えても石が持つの意味がわからなかった。
たとえば小学生でありながら、高校三年生の授業に紛れ込んでいるような感覚だ。
ときどき見たことあるような、わかりそうな、場面には出くわすけれど、やっぱりわからない。周囲はぴりぴりとした空気。
理解することが必要なわけではない。でも、その片鱗にくらい触れたいと思うのは自然なことではないだろうか。
ただの中継点であって、それ以上ではないとわかっているけれど。

存在のあり方が、生きる目的が、見ているものが違うとわかっているけれど。

「おめでとう」

月並みの賞賛をそれでも口にしたのは、単に自分に視線を向けたかったからだろう。
佐為はようやく私に気づいたと言わんばかりに私を見た。

「ありがとうございます。――玲奈、本当にありがとうございます。もう、こんな対局は叶わないと思っていました」
「満足だったならよかった。私へのお礼はいいの」

自分に注意を向けさせたいと思っていたくせに、素直な謝意を表されると、なにか違う。と思ってしまった。
私は別に功労者じゃないのだ。むしろ、大したことはなにもしていない。
塔矢行洋氏に再戦したいと思わせたのもsaiなら、ブランクを諸共せず見事に勝ち星を挙げたのも佐為だ。
私の意思ができることは対局中にはない。これからだ。

「それよりも、塔矢行洋さんに何か話しかけてみる?」


こうして囲碁界の裏なる頂上決戦は、大きな波紋となって、
けれど当人たちにとっては緩やかに、幕を下ろした。


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