32.光の下へ

「saiか……」

パソコンの前で煙草を吸って、緒方は呟いた。
画面の向こう側では世紀の決戦が行われている。

「やはり、見事だ」

手放しの賞賛に値した。悔しいことに、
放たれる一手の真意は、数手後になってようやく知れる程度だ。
五冠を達成した『名人』が引退してからもプロとして歩み続けてきた緒方は、
現在の囲碁界のトップに近い場所にいると自負していた。
しかしながら、それは錯覚だったのかと思われるほど、
彼らは、――少なくともこの対局は、緒方の及ばないほど高みにあった。

今の戦況は少しsaiが良いと言えるだろう。
彼には驚かされるばかりである。
実体のない存在であるながら、当時最強と謳われた塔矢行洋に勝利したのだから。
けれど、それだけではない。彼は誰もに最強の存在と認められて尚、かつてよりも成長しているのである。

塔矢名人――そう呼べば、懐かしい響きだと本人は言うだろう。
今はただの塔矢行洋だ、と言うが、今でも国内では『名人』という言葉は彼を指すことが多い。
緒方自身は『先生』と呼んでいる――が、弱くなったわけではけっしてない。

かつて完璧な強さを誇ると言われたはずの人物は、自らを違う環境に置くことで、
己のスタイルを変えて、新たな強さを生み出していた。
極端な話、年を取り、地位や実力が蓄積されればされるほど、通常は保守的な手が増えるものである。
しかし、塔矢行洋にそんな傾向は無縁と言えた。
彼はさらなる高みを目指すために、しがらみを切り捨てたのだ。

そして『成長』したのである。
少し無茶な手も打つようになった。けれど、彼が打つことで洗練された輝きが纏われる。
塔矢行洋はsaiとの再戦に備えて、願って、環境を変えて貪欲に自分を磨いた。自分の限界をも棄ててみせた。

それでも、画面を見る限り、saiはその上を行っている。

見事だ、と思いながら、緒方は、何故だ?とさえ思った。
事実上 これは紛れもなく囲碁界の頂上決戦である。
その二人は凡人を遥かに超越した高みにいて、何故、今尚成長するのだろうか。果てはどこにある?

それは純粋な疑問ではなく、自分自身への皮肉も含んでいた。

六年前と比べて、緒方は彼らに近づいているはずだった。
正規の道で、多くのものを手にしてきた。
追い越していても不思議はないとさえ思っていた。
それなのに、影も掴める気がしない。
自分が追いつくのを待たずに、果てなく、彼らは高みに上ってしまう。
その高みの先に神の一手があるのだろう。あまりにも遠い。

悔しい、と思った。
歯噛みする。
どうすれば、いつになったら手が届くのか。

塔矢行洋が引退してから、次の時代の先頭に立ったと言ってもいい。
貪欲にタイトルを集め、一時は三冠にも達した。
けれど、長く王座に座りすぎていたのだろうか、ここ数年、挑戦者としての自分を失っていた。
そして先日、若手の進藤ヒカルに本因坊の座を奪われたばかりである。

進藤ヒカル――saiの弟子。

緒方は早くからsaiとの関連を疑っていたし、才能を脅威と認識していた。
けれど、まあ、ずいぶんと強くなったものだ、と思う。
身に纏う『謎』を『実力』に変えてみせた。まっすぐ、彼には迷いがなかったのだ。
先日は特にそれが顕著だった。

あの対局に言い訳をする気はない。
僅差だったといえば僅差だったし、大差だったといえば大差だった。
なんにしろ、緒方の方が下だったということだ。

くっくっと押し殺すような笑いが湧き上がった。けれど目は笑っていない。画面を睨んでいる。
こんなにも激しい感情が沸き立つのは久しぶりだった。劣等感を抱いているのだと自覚した。

緒方も、貪欲に強さを、ひいては地位を求める一人の棋士だったはずなのに、
いつのまに自分は現状に満足するようになったのか。

先日の進藤との対局、そして今日のsaiと塔矢行洋との対局が、
まどろむような夢から緒方を目を覚まさせた。
現実は泥に塗れた負け犬。そこから如何にして這い上がるかが見せ所だ。
あくまでも冷静な声で己に宣言した。

「今度は俺が挑戦者になる番、か。
――挑戦者として、saiに挑もう」

緒方はまだsaiに対局を申し込んではいなかった。
ここ数ヶ月は本因坊戦を控えており、その対局相手である進藤に頭を下げて頼み込む気にはなれなかったし、
成長株である進藤との目先の対局を思うと、精神的にその余裕もなかった。

だが、守る価値のあるものがなくなった今は、もう一度『挑戦者』として自分を始めるのだ。
自分にも、限界などないはずなのだから。盤上には無限の可能性があるのだから。

「そしてもう一度五冠を目指すか」

そうして、あらゆる傍観者の心を動かして、呟いた決意を動かぬものとして、
最強の対局は、まだ続く。


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