31.窓のこちら側と向こう側

「始まった!」

アパートの一室で、和谷は歓声を上げた。
パソコンのディスプレイには 「sai vs toya koyo」 の文字が浮かんでいた。
持ち時間は三時間というネット碁ではやはり異例の中であるが、
それ以上に異例なほど観戦者が存在していた。

「saiが黒か。前回とは逆だな」

呟きながら、碁盤の画面上と同じ位置に黒石を置いたのは伊角である。
ヒカルは、まっすぐな目を画面から離そうとしない。
あっ、と声を上げたので、二人が見ると、toya koyoが新たな一手を放っていた。
序盤はそこから加速した。
部屋の碁盤に伊角が黒を、和谷が白を並べていく。

「塔矢名人、もう仕掛けてくるのかよ!」
「前回と違ってsaiの力量を最初からわかっている。相手を窺う必要はないということだろう」
「この手はどこを狙ってるんだ?」

勝敗の行方を知りたいだけでなく、彼らもプロ棋士であるゆえに絶好の研究材料を眺めているだけではない。
さまざまな議論を交わしていく中で、ヒカルはぽつりと思ったことを言った。

「引退してから、名人の打ち方かなり変わったよな。
少し悪い形でも厭わない、それさえ武器に変えるような」

塔矢行洋はプロを引退してからこの六年間、しがらみを持たず国際的に活躍していた。
プロアマ問わず、国境を超え、精力的に棋戦に参加したり、個人的に各国のプロと対局したりした。
その中で得たことは多いのだろう、彼はそれまで自分が築いてきたスタイルにさえも固執せず、広い視野で最善の道を探していた。
『若返った』と言われるのはそのせいだろう。しかし、そうやって蓄積された経験のさらに上に現在の彼がある。

「saiの方はどうだ?俺も最近の棋譜をいくつか見たけど」
「やっぱりスゲエ。六年のブランクは感じないよな。どっか別の場所で打ってたんだろ。
プロと対局するようになってからも特に、前よりももっと、上達していると感じる。果てが見えねえよ」

和谷の意見に伊角は頷くが、ヒカルは苦笑した。
ブランクを感じさせないというのは凄いことだ。実際に空白はあるのだから。
彼はまだ、はるかな高みにいる。

「な・に・笑ってんだよ!」

すると、和谷がヒカルを後ろから強くどついた。
いてっ!と声が上がったので、伊角は名前を叫んで和谷を窘める。

「伊角さんも言ってやれよ!だってコイツ、saiのこと知ってんだぜ?
知ってんのにいくら口割れって言っても未だに話そうとしないんだぜ!?」
「まあ、それはな……」

伊角の遠慮するような視線を受けて、ヒカルは言葉に詰まった。
この手の話題は何度も繰り返されてきた。
それから逃れるのはけっして簡単なことではなかったが、ヒカルの頑なな態度に和谷はひとまず諦めた。
しかしながら、納得しているわけではない。ときどきこうやって癇癪を起こすのだ。
それというのは彼がsaiのことを尊敬しているからでもあるし、
ヒカルのことを一友人かつ一ライバルだと思っているからでもあった。
また、ヒカルに頼んだとはいえ、忙しいsaiと対局できる機会がまだ巡ってこないというのも彼をやきもきさせる一因だろう。
ヒカルの方は、隠しごとをしている立場なのだから逆上も受け止めなければならないと負っている。

「うっ……悪いとは思ってるよ」
「お前が何も話さないから、saiは謎のままなんだろ!」
「まあ、進藤にも事情があるんだし」

注目の対局の話題から逸れて、あまりにも和谷が感情を高ぶらせているから、
同じ立場であるはずの伊角も思わずヒカルのフォローに回った。
伊角は、かつてヒカルが手合いを休んでいた時期に思い悩んでいたのはsaiが原因であると確信していた。
当時の状況を鮮明に覚えているから、強く責められないのである。

「だからだろ! 俺たちが聞かないでいてやってるんだから、一人で笑うなよ!」

和谷は正当な主張をしていた。
ヒカルはすまなさを感じて、一言謝った後に沈黙すると、「saiが動いた!」と声が上がる。
とにかく忙しい状況だ。
saiが放った一手についてもさまざまな意見が飛び交う。
それから、また話題が飛んだ。

「まだ観戦者増えてるな。テレビとかでやればいいのに」
「話はあったらしいぜ。でも正規の棋戦と違って、ネットの画面映すだけだもんな。
塔矢名人も煩わしい取材なんかはほとんど受けないし」
「たしかにな」

碁の最強を決める名勝負はなんのしがらみもないままに行われていた。
両方の打ち手がプロ以上の実力を持ちながらプロではないというのだから舌を巻く。
『囲碁界』とされる領域とも違う、もっと神聖で高い二つの頂点に彼らはいた。

「っていうか進藤、そもそもなんでお前も画面の前で見てるんだよ。
誘ったのは俺だけど、まさかOKされるとは思わなかったんだぜ。
お前弟子だろ。本当はsaiの近くで観戦できるんじゃないのか?昔はそうだったじゃねーか」
「や、まあ今は別に……。昔は、俺がいなきゃアイツはネット碁できなかったからさ。
頼めばそりゃ近くで見れたけど、ただ見てるだけだろ。応援なんていまさらだ。
それよりもこうやって検討して、勉強させてもらうさ」

佐為のことを慕う気持ちはもちろんある。
しかし、ヒカルは一人の棋士として彼を見据えていた。
いつまでも傍で、後をついてくのではない。
自分の道を歩んで、いつか追いつき追い越すのだ。

画面の中で、彼は美しい一手を放った。


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