30.その瞬間が来るまで

「いよいよ明日だね」

明日、saiは塔矢行洋と対局する。
事前に日本棋院のホームページから告知されているので、
世界中の囲碁ファンがプロアマ問わず楽しみにしているはずだった。

「ええ。楽しみです」
「あのね、saiを再開しようとしたときに、
あなたは六年間立ち止まっていた自分を悔いるようなことを言っていた」

急に話題を変えた私に、佐為は戸惑いながらも相槌を打つ。

「けれどそれは違うって、今なら私は言える。
時間が平等に与えられていたって、過ごし方は人それぞれだよ。
単純に比例するものじゃない。大切なのは、思いの強さなんじゃないかな。
この数ヶ月間、佐為がsaiとして誰よりも貪欲に対局を重ねてきたことを私は知ってる。
千年、そうして過ごしていた『時』がある。だから胸を張ってね」

実力に関しては偉そうなことを言えるわけがないけど、
少なくとも私は、対局に向かう佐為を取り巻くが日に日に研ぎ澄まされていくことを感じていた。
強さだけが存在の証。佐為は囲碁のために存在している。きっと負けない、と思う。
それに、前回勝利したのは佐為なのだから、塔矢行洋氏の方が挑戦者だ。
けれどまた佐為も挑戦者であって、だからこそお互い盤上でぶつかり合うのだ。
佐為は意志の強い瞳で頷いた。


「さあ、今日は何をしようか?」

休日ということもあって、今日は対局の予定を入れていない。
本番の直前はどういう過ごし方をするのがベストだろう?
私は大会の前なんかにどうしていたかな。いつもより遅くまでみんなと打っていたかな。
佐為は少し考えてから、胸の内を語った。

「――私は再びこの世に姿を現してから、あの者との対局のことをずっと考えていました。
棋譜を並べては、かつてとも違う鋭い手に、私はどう応じるだろう、と。
碁盤の上に何千何万回と思いをめぐらせました。すでにさまざまな考えが私の中にある。
だから前日は気持ちを落ち着けるほうがいいのかもしれません」

たしか前回の対局の直前、佐為は、
緊張を和らげるためにあかりちゃん―此処では年上だろうから『あかりさん』かな―と打ってたっけ。
手加減できるほど格下の相手がいたことないからわからないけど、ヘボで良いってことだよね。

「じゃあ、私と打ってくれる?」

提案すると、佐為は「名案ですね」と了承した。
けれど、と条件がつく。

「指導碁じゃありませんけど、置き石を少しは減らしてくださいね」
「えー、いくつ置いても最後にひっくり返すくせに!」
「玲奈の場合は、ハンデがありすぎると安心感に腕が鈍るんですよ。あなたは背水の陣ほど面白い一手を放つ」
「背水の陣にもほどがあるって。そういうときは無理をしすぎて最終的に水に落とされるんだから」
「けれど挑む心が大切ですよ。守るばかりではつまらないでしょう」
「佐為が、ね」

ふふっと優美に笑う佐為が楽しそうだから、今日は私が折れることにした。
さすがに今日まで佐為に私の指導をさせる気はない。
褒められたことは嬉しい。
でも、天地がひっくり返っても勝てない、絶対に負けるってわかってる対局で食いついていくのって苦しいんだよ!

――楽しいけどね。
少しくらい無茶な手を打っても、佐為は単に拙い手だと言うのではなくて、正しく批評してくれるから。
私は、碁石を用意して前回佐為と打ったときよりも少なめにした置き石を並べて頭を下げた。

「お願いします」

考えて考えて、石を打つ音はこんなにも心地いい。


部屋にもう一つ置いてある、上に何も置かれていない碁盤。
それは誰かの一手を待っている。奇跡の一手を。
佐為は対局の合間、つまり私が悩んでいる間に、何度もその盤を眺めていた。
決戦はついに明日。


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