02.示された道

気づいたら、そこにいた。
上も下もわからず、ふわふわふわふわ。
地に足が着いているのかもわからない。

(ここはどこだっけ。今はいつだっけ。私は……―――私だけど)

アイスクリームが溶けたように輪郭が曖昧な空間の中で、漂う思考をつなぎとめるのに苦労した。
うまく意識の座標指定が出来ない。
一つのことを思い出そうとするのに、いろんなことが浮かんでくる。

部活があったのは、今日。
予備校で忙しいはずの部長が顔を出したのだから、金曜日ってことになる。
そうだ、私その部長に互先で勝ったんじゃないか。
その後は? ちゃんと帰宅した? これはただの夢?

違う。
帰り道に何かあった。

そう、
交通量の多い道路の真ん中に白い毛に金色の目の猫がいた。
車の途切れることのない二車線と二車線の間で、
困っているのかと思った。

だから、子供みたいに手を挙げて道路を渡って、
その猫を抱き上げようとしたら、
爪で手を引っかかれて逃げられてしまった。

むっとするよりも先に、そこは道路の真ん中。

「あ」と声を出すと同時に向かってくる大きなトラックが目に入って、
手を伸ばした私は愚かだったんだろうか。
刹那、言葉にならない痛みと衝撃が訪れて、宙に舞って、絶えた。

そう認識した直後、どこからか声が降ってきた。

「悪かったな」

そこは私だけの空間だと思っていたのに、知らない誰かがそこにあった。
それは軽い驚きだった。
目を凝らすと、光を放つ何かがそこにあることだけがわかった。
此処は暗闇ではないようだけど、逆に眩しすぎて姿が見えないのだった。
金色の輝きに形はない。けれど声は少年のようだ。

「まさか仮の姿とはいえ、人間に見えるとは思わなかったんだ。驚いて、逃げて、結果死なせてしまった」
「ちょっと待って、もしかしてあなた、あの猫なの?」

すぐに金色の瞳を思い出したのは、あの猫は普通の猫ではないような気がしたから。
どこか神聖なあの白い毛は、すり抜けてしまうほど儚かった。
引っかかれた手の甲は不思議なほど痛みがなかったような気もする。
仮の姿だというなら、そうだったのだろう。
不思議な、不思議な。

「そうだ。すまなかったな」
「引っ掻いたこと?」
「それもある」
「死なせてしまったこと?」
「そうだ」

ふわふわとした空間が、急に深海の底のように感じて、私は全身に寒気を覚えた。
ごくりと息を呑む。

「私、死んだの?」
「そうだ」

鈍器で頭を殴られたような衝撃って、多分こういうことを言うんだと思った。
次に続く言葉が出てこない。

私にとって、生きているということはあまりに当然過ぎた。
ゆっくり道草しても辿りつける未来があった。
途切れるなんて誰が思っただろう。あっけなく、一瞬で。

呆然としている傍らで、彼は話し続けた。

「俺はお前たちの言う、神のようなものだ。神、天使、精霊。そんなふうに呼ばれる。
俺自身に所属はなくて、どこにも固定されていないからさまざまな世界を渡り歩いている。
その先々で魂を導くことも、時空を開くこともある」

(神様なんて、)

「世界に降り立つには仮の形をとるが、今回 人に見えるようにしたつもりはなかった。
おそらく、お前は第六感に優れた人間なんだろうな」

(そんなの知らない)

「神とは基本的に『生み出す』者だ。それしかできないと言ってもいい。
だが『生み出す』立場でありながら、お前を殺してしまった。これはあってはならないことだ」

(だからなに?)

「調べによるとお前は健康で、事故がなければ人間にしては長生きをする予定だった。
魂に穢れもなく、善良だった」

(過去形にしないで。そんなの、いらない)

「うるさい。……急にそんなこと言われても、困る」
「ああ。悪かった」
「謝らないでよ。私、死んだんでしょ? それが変わらないなら、説明も謝罪もなんの慰めにもならないじゃない……」
「そうだな」
「私、消えるの? それともあなたが神様なら、生き返らせてくれるの?」

神様なのだから、そんなこともできるかもしれない、
神様が言葉でしか誠意を示せないなんてお粗末過ぎる。
そのつもりでわざわざ姿を現したのかも知れないと思って、希望を託した。

「いや、それは出来ない」

即答されたことが恨めしくて仕方ない。
絶望して、泣きそうになるのを抑えて睨みつけて、驚くほど低い声が出た。

「どうして」

「この世界では、起こったことは覆らない、死者は蘇らないというのが絶対の理だ。
俺は別にこの世界を治めているわけじゃない。
この世界はこの世界の創造主のもので、その神に定められた理は此処では守らなくてはいけない」

そんなふうに冷静に理屈を並べられると、空虚な悲しみが湧き上がるばかりだ。
私の人生は終わってしまったのだ。
身近な人の顔を順番に思い出しては、言いたいことが浮かんでくる。

「泣くな」
「……この状況で笑っていられる人がいたら、それは相当な狂人だね」
「そうだな」

神様には人間の気持ちはわからないのだろうか。
彼がどんな言動を起こしても、今はただ苛ついてしまう。
すべて彼が悪いとは言わない。事故なのだから、『許さない』とは言えない。憎んでいるわけでもない。
けれど、『許せる』わけでもないし、恨めしいことに変わりはない。

「あなた、なに? わざわざ私が死んだっていうことを宣告しに来たの? それとも本当に謝るためだけに来たの?
 そのままにしておけば私は恨み言を言うこともできなかったのに、放っておくと良心が痛むから、責められに来たの? 私に人を責める悪役を演じろっていうの?」
「そういうつもりじゃない」
「じゃあどういうつもりよ。……あのね、謝罪っていうのは改善するという前提があるから価値があるんだよ。
何の誠意も示さないでただ『許してほしい』って願うことは、ただのエゴの押し付けなの」

こんなときでも口は回るものだなと思った。
諦めが先行しているのか、単に混乱しているのか、私は自分が何をしたいのかもわからずに理屈を並べた。
でもこれは本来の私のモットーで、私は『なにに対して』謝っているのか説明できない人が一番嫌いだった。

行動には常に責任が付きまとうわけで、『とにかく許してほしい』なんて都合がよすぎる。
だから、強すぎるほどの責任感で自分の言動に責任を持つ夏実みたいな人が好きだったんだ。
そう考えると、また涙が滲んでくる。

「それなら、きちんと誠意を示そう」

死亡宣告と同じようにあっさりと言い放った声は、やっぱり憎たらしかった。


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