28.誰かのせいにしたくない

スーパーで買い物をしてから、マンションに帰った。
いつもはコンビニで済ませるんだけれど、ジン君も夕食に誘いたかったから、コンビニ弁当じゃ失礼だ。
「なにか食べたいものはある?っていうか、食べられるんだっけ」と聞けば、
「俺が物を食べられないなら お前も食べられないはずだと」返された。
そういえばそうだ。

「味覚はお前に近いはずだ」って。
つまり私が食べたいものを食べればいいのね。

凝った料理なんて作れないから、ご飯を炊いて、鶏肉を焼いて、野菜を炒めて終わり。
近い将来に一人暮らしをするという計画があればもう少し研究しておいたのに。
毎日家族全員分の料理を作っていたお母さんってすごかったんだなあ偉かったんだなあと思う。
当然だと思っていた頃は感謝を伝えるどころか、そもそも感謝自体が薄かった。

簡単な料理が並んだ食卓について、いただきますと手を合わせた。
それから、ジン君にたわいもないことをあらためて聞いてみる。

「神様って、食事するんだね」
「普段はしないし、しなくてもかまわない。
けれど、今お前の殻は人間によく似せているから、人間と同じことをすればいい」
「そっかー」

それじゃあ私は今、人間なのだろうか。人間じゃないんだろうか。
私は神様になったことを仕方のない事実として受け入れつつ、神様の定義というものをよくわかっていなかった。
私は今、一体何なのだろう?
けれどそれは漠然としすぎていて、どういうふうに尋ねればいいのかわからない。
じゃあ、と口を開いてから、やっぱりいい、と閉ざした。

「なんだ。聞きたいことがあるなら聞け」
「や、別にいいよ」
「ないはずがないだろう。押し留めるな」

そりゃあ、たわいのない疑問ならいくらでもある。
でもいくらでもありすぎて、とりとめもなくて、とめどなくて、拾えない。
だってたとえば世界の在り方とか、神様とか、そんな漠然としたものには、誰もが触れずに生きてきたはずだ。
向き合うのは怖い。果てがないから。自分を信じられなくなるから。
『わからない』に支配されるくらいなら、与えられた事実に納得してしまうほうが楽だ。
ジン君は嘆息した。

「お前は、俺を責めないと言った。
では、お前の憤りや怒りや後悔、やるせなさ、悲しみの類はどこに行く?
目を背けているだけで、お前の中に渦巻く感情があるはずだろう」

ジン君は視線で私を射抜いていた。
冷たいのではなくて、私を見透かす視線。確実な回答を要求する視線だ。
私を心配しているのだとか、気遣っているのだということはわかる。けれど、やめてほしかった。
どうして私が責めないと言っているのに責めさせようとするの。
考えないようにしようとしていることをこじ開けるの。

「やめようよ、そんな話。楽しい食事の時間にさせてよ」
「重要なことだ。ここは親も友人もいない世界だろう。不安がないわけがない」

そんなことはわかってる。
朝目覚めてから夜眠るまでのすべての生活が一転したのだ。
これまで毎日会っていた人が、誰もいないのだ。
『私』という存在は周囲の人たちがいて初めて定義されていたことに気づく。
調子よく好きなことだけやって、上面の愛想は良くて、本当の友達は大切にして、
先輩でさえもからかって、それでも許されてて、生きていた。人間関係の上に成り立っていた。
だから一人になってしまうと、自分でさえ、別人になったような気がするんだよ。

「やめてっ!思い出させないで、実感させないで」

自分の中でぼんやりと抱くことと、誰かに突きつけられるのとでは重みが違った。
悲しみの逃げ道のない場所に立たされる。
不釣合いなほどやさしい映像、声が、笑顔が胸に浮かんで、じわっと涙が滲んだ。

「そう。お前はもっと泣くべきなんだ」
「悪趣味だよ。どうして人を泣かせて喜んでるの。バカじゃないの」
「向き合わなければ、永遠に侵食され続けるだろう」
「たしかに、忘れられる問題でも、時間が解決する問題でも、ないけど、ね」

16年間押し留めておくことが無理なことだなんてわかっていた。
時間が経つほど、『違い』を思い知る。今まで気づかなかったことに気づかされる。
大好きな人の顔が思い浮かぶたびに胸が痛む。
しかも、思い浮かぶのは全部笑顔だ。みんないつも笑っていたわけじゃないはずなのに。

「でも、泣い、て、すっきり、して、解決するような、問題でも、ないでしょう」
「合理的になれないと言ったのはお前だ」
「そうだ、っけど……!」

反論もしゃっくりと涙声で役に立たない。本格的に溢れ出す。
とまらなかった。ここ数ヶ月間に感じていた負の感情が全部、とめどなく姿を現したのだ。
俯いて、膝の上で拳を握った。

せめて綺麗に泣かせてくれればいいのに、と思う。
嗚咽なんて人に聞かれたくない。しかたなく涙がこぼれるなら、口を閉ざしていたい。
それなのに私は震える唇で、何を言いたいのかわからないままに文句を言っていた。
目も赤い、涙はぼろぼろ、そんなみっともない顔で。

「泣いた、って、何も変わらないのに、わかってるのに、どうして泣かせるの。
私はちゃんと、やりたいことをうまくやってたのに。だいじょうぶなのに!」
「俺にはお前が無理しているように見える」

私が反論できずにただジン君を睨んでいると、黙っていた佐為が発言した。

「私も賛成です」

賛成?なにそれ。佐為は私の味方じゃないの?
軽く裏切られたような気分になって初めて、私は佐為に『そういう扱い』をしていたと気づいた。
多くの時間、佐為に口を閉ざさせていた。黙らせていた。
最初に偉そうな態度を取った。私が話さなければ佐為が聞けるわけがない。

自分でも整理できていないことを誰かに話すのは難しい。
干渉するなと言っておきながら、囲碁以外の雑談をするのも、やはり難しかった。
だからって、職権乱用しすぎていた。
それなのに佐為は不満を言ったりしなかった。
むしろ私を心配するのだ。

「私は玲奈の詳しい事情を知らないけれど、あなたはもっと周囲を頼るべきです。
すべてを一人で背負い込もうとしないでください。できれば、私に話してほしい」

私は佐為の意思を無視していたんだろうか。信用できていなかったんだろうか。
押し付けになっていないことを案じた。でも、一方的であることに変わりはなかった。
私が変わろうとしなかったから。

そんなことを頭の隅で考えたけれど、泣き喚いていた私はただただ首を振った。
駄々っ子のように。

「だからってどうして泣かせるの? 泣くのは、嫌いなの!泣いてる、と、自分が、思い通りに、なら、なくて、
どうしようも、なくて、拳を握るしかなくて、なんにも、でき、な、い、無力で、ちっぽけだ、って、思い、知らされる、からあ!
私は、大丈夫なの、に。せめて、大丈夫だ、って、思わないと、どうしよ、うも、ないで、しょう!?」

私が当然に抱いていた思いは、どこに行くんだろう。
そんなことはわからない。
雑然と散らばってしまった思いを、吐き出そうとしても理性という糸に絡め取られて言葉にならなかった。
私の中にはジン君に、殺されて、救われて、生かされている。という矛盾があって、
できることなら憎悪よりも感謝を選びたいと願っているだけだった。それは縋るべき秩序だった。

けれど、理性的になろうとするほど、虚無感は広がっていくばかりだったこともたしかだ。
自分の中で静かに打ち消そうとしていたのに、それでは足りなかったのだ。
八つ当たりでもしないと自分を自分を傷つけてしまいそうだった。
私は、顔を上げてジン君に矛先を向けた。

「じゃあ、質問、だけど、ジン君は、ど、うして、ここにいてくれないの?」


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