二人が曲がり角に消えてからも、ヒカルは呆然とそれを眺めていた。
玲奈が兄だと紹介したのは、モデルでもホストでもおかしくないと思うくらい造形の整った男だった。
年齢はうまく計れない。ヒカルと同じくらいか、もしくは年上か。
思わず職業を聞いてみたくなったが、おそらく深く込み入ったことを聞くのはタブーだ。
家族がいたのか。という妙な驚きがあった。
それはとても失礼なことだとわかっていたけれど、これまでの玲奈の謎めいた言動を考えれば致し方ない。
玲奈自身は見た目普通の高校生なのに、なぜか一目で兄妹だと納得できてしまうくらい、二人は似ていた。
どんな兄なのだろうか。
そもそも、どんな兄妹だ?
玲奈は学校には行っていないと言った。
何故?
さすがに、『聞いていい話』ではなさそうだから聞かなかったけれど、
気にならないといえば嘘になる。
玲奈は暗い性格をしているわけではない。
人付き合いが苦手なわけではないだろう。むしろ得意かもしれない。
初対面のヒカルに対しても笑顔だったし、
年上に敬語を崩さないわりに物言いもはっきりしている。
次に考えるのは経済的なことだが、
着ているものは、ブランド品でなくてもそこそこ良い物だろうし、
卑屈さもなければ、一日のほとんどをネット碁に費やす余裕もあり、また、働いているわけでもない。
それに、部活をしていたと言ったのだ。
中学のときの話かもしれないけれど、そうじゃないかもしれない。
なにかトラブルがあって学校を辞めなくてはいけないにしても、転校とか、他の手立てはなかったのか?
すぐにでも社会復帰できそうな性格をしているのにそうしないのはなぜか。
なぜ、あの兄貴は家でただネット碁に向かう妹を許しているのか。
佐為のことなどをすべてを理解しているのだろうか。
そういう常識的なことも考えてしまう。
高校に行かず、棋士というある意味で特殊な職業に就いたヒカルが、
高校に行かないことを責めるのはおかしいかもしれない。が、正しい。
ヒカルは棋士という立派な職に就いているのだ。
それに見合うだけの努力と実力がある。特殊な道でも、数多く存在する道なのだ。
そう考えると、あらためてヒカルと玲奈には違いがある。
ヒカルの経歴は大して道を外していない。
中学在学中にプロ棋士になり、一時期手合いを無断欠席したようなこともあったが、
今となって世間からはスランプだったと思われるだけだ。
卒業してからはそれこそまっすぐに歩んできた。
師匠がいないとかプロになるまでの時間が短いとか多少の腑に落ちない点があったが、
それはsaiの弟子という事実ですべて解決した。説明できる経歴である。
本因坊にまで上り詰め、まっとうなプロ棋士だといえばいいだろうか。
対して、玲奈はヒカルの目から見ても不審な点が多い。
一番初めに会ったとき、そもそも、『今から語ることは半分以上が嘘かもしれない』と言ったのだ。
その条件を受け入れるしか方法が他になかったとはいえ、今考えればすごい言い分だ。
けれど、それを言った玲奈が嫌味に思えないのは、どこか痛切な、懇願のようなものが瞳にあったからだ。
あんなふうに、碁盤の前に座って泣きそうな表情をするやつが他にいただろうか。
最初は気づかなかった。けれど、嬉しいとか悲しいとか全部入り混じったような複雑な顔で、盤を見る。
それはまだ緊迫した場面ではなかったから、内容に関することではきっとなかった。
石に触れて、一つ取って、打つたびに、まるで特別な儀式のように。
きっと、玲奈にとっても囲碁は特別なものなのだ。
違和感なく、そう思った。
だからこそ湧いてくる疑問。
それがヒカルにとって一番叫びたくなる問いだった。
何故、すべてをsaiに費やせるのか。
ヒカルが佐為のために動くのはいい。
三年間一緒に過ごしたのだ。親しみがある。恩がある。感謝がある。
言葉では言い表せない思いがたくさんある。
けれど玲奈が当然のようにしていることは、当然ではない。
佐為を『呼び寄せた』のがいつかは知らないが、あまりにも手際がいい。
まったく当たり前ではないことを当たり前のようにしているのだ。
打とうと言えば、あんなに嬉しそうに頷いた。
どうして打たないのだろう。玲奈は佐為とは違う。自分の体があるのだ。望んでいいはずだ。
かつて、自分が打つことをやめて、すべてを佐為に委ねた棋士がいた。
虎次郎――すなわち本因坊秀策だ。
彼は当時プロを目指すほどの実力があったので、佐為の才能を見抜き、託した。
ヒカルはかつて、自分がそれをできなかったことを悔いた。
しかし、今になって思うのは、たとえ佐為の凄さを十二分にわかっていたとしても、
ヒカルには自分を押し殺すことが出来なかっただろうということだった。
打ちたいという感情が先立ってしまう。
佐為がいなくなってからしばらくの間、ヒカルは二度と碁を打たないつもりでいた。
そのときの苦悩は人生で一番深かったのではないかと思えるほどだ。
そんな思いを玲奈も今しているのではないかと思ってしまう。
佐為との再会に意識が奪われていたときは気づかなかった。
けれど、ひとまず大きな対局を終え、決意した佐為へ宣戦布告を済ませた後の落ち着いた心境では、
そういうことが強く感じられた。
虎次郎は出会ったことのない、思い出話の中だけの人物。
あえて言うなら、会ったことのない他人。知り合いの知り合い。
だからヒカルは感情移入して考えずにすんだ。
けれど、今の現実に、目の前に、
自分ができなかったことをしようとしている少女を見ると、どうしていいのかわからない。
あるのは羨望と同情に似た、何か。
玲奈のためにも何かしてやりたい、と思ったのは自然なことだった。
風が吹いて、ヒカルは玄関に入った。