何故。と思う。
どうして疑問を口にしてしまうの、と。
打ちたいと思うことはきっと佐為にとってもヒカルさんにとってあまりにも自然なことなんだろう。
今までの流れなら、不登校少女がsaiを唯一の生きがいとしているとも取れる。
でも、そんな不登校少女自身にも尊厳があると思ったのだろうか。
『打ちたい』というのが、どういうことなのか私にはわからない。
囲碁は好きだ。楽しいし、上達したいと思う。
趣味や娯楽の一環で、暇な時間は(暇でない時間も)すべて囲碁に費やしていた。
友達や先輩と一緒にはまっていたからってこともあるんだろう。
夢中だったのは、それが当たり前だったから。
他のことなんて見えていなくても、手に入った日々。
死んでしまった。
当たり前がなくなった。
環境が変わって、平然を装っても、心の余裕を作るのが精一杯で、
それでも一番初めに思うことが「打ちたい」だなんて、
私はそれほど囲碁のために生まれてきたような人物ではない。
そもそも、自分を優先させて打ってたことを後悔したのはヒカルさん自身ではないか。
そんな感情が存在するって知っていて、どうして私に同じことができるだろう。
――あるいは、『だからこそ』なのだろうか。
ヒカルさんは過去私と同じ立場にあった。だから、私の気持ちがよくわかる。
できなかったことは、困難だったからできなかったのだ。
すべてを佐為の為に成す私が信じられない。
『私』自身に目を向けられること。それは初めてのことように思えた。
私は、打ちたいのだろうか。
(打つのは好きだよ。佐為の対局を見るのも、好きだよ。
……だから、何)
そう逆ギレしてしまうのが一番楽で、たぶん本心なんだろうと薄々わかっていた。
強い思いではないけれど、最近打っていないことは確かだ。
特に自分の実力を試すための互先は。
でも、私が神様っていうことに関係なく、言霊の力ってあると思う。
言葉にすれば、それが確定してしまうようで怖い。
答えを出しかねていると、ヒカルさんは困ったように言った。
「そんなに悩まなくてもいいんだけどさ。
佐為とは打ってるんだろうし、余計なお世話かもしれないけど、
たまには玲奈が打つのもいいだろ。
碁会所に行ったことないっていうなら、紹介してやろうか?」
びっくりした。
簡単に言われてしまったから。簡単なことだったから。
碁会所という選択肢は無意識に外していた。
ネット碁よりはsaiを押しのけてという罪悪感が少なくていいのかもしれない。
少しくらいなら息抜きにすればいいんじゃないかな。
漠然と打ちたい、と思うことはあっても、自分が打つために行動しようとしたことはなかった。
土日はsaiをお休みにしているから、『私』が暇な時間はあったのだ。
無理に佐為のため、なんて言って何かしようとするのは押し付けがましかったかもしれない。
特に最近は、ストレスでなんとなく気分が沈んで、佐為に迷惑をかけたから。
「……そうですね。行ってみるのも楽しいかもしれません。
やっぱり、佐為と塔矢行洋氏の対局が終わってからになりますけど」
「アキラがいるとこだと面倒だから、別のとこな。
アキラとはまた別のときに会わせるから。
――それから、せっかくだし、俺と打たないか?」
また驚いた。
ヒカルさんは自分がプロ棋士だって自覚があるんだろうか。
佐為との対局が終わって、もう一局打ちますか、なんて言って、片付けをしているところだったから。
私は困って佐為を見た。
すると佐為は、あっさり「打ってみてはどうですか?」と言った。
「いやいや私弱いから!」
「大丈夫。どんなヘボ相手でも慣れてるって。佐為とは打ってるんだろ?」
「玲奈は中々いい筋をしてますよ」
「佐為にはめちゃくちゃ手加減した指導碁打ってもらってるだけです」
「じゃあ、めちゃくちゃ手加減した指導碁打つからさ。好きなだけ石置いて」
そんなふうに言われたら断れないじゃないか。
なんだか佐為に悪いような気がして、振り向くと、佐為は微笑んでいた。
「玲奈」
名前を呼ばれる。
なに、と答える。
「私はあなたに自分を押し殺してほしくない」
心の中を見透かされたようだった。
「私は玲奈に感謝しています。
でも、だからこそ、あなたにとっても心地よいときを過ごしてほしい。
私のことを優先してくれるのは嬉しいけれど、自分も尊重してほしいのです」
ああ、私はあらゆる意味で佐為の意思を無視していたんだな、と思った。
思い込みとエゴの塊だった。
方針を決めなければ進めなかった。だからって。
「ありがとう……」
呟いて、冷たくつるつるした黒石に触れると、また新しい気持ちになれた。
自分の意思で一手を放つと、笑みがこぼれたのは、やっぱり打つのが楽しいからだ。
置いた石は次々と取られていったけど、
ほんの少し取ったアゲハマに満足した。