22.何もかも、すべてを望んで

ヒカルさんが本因坊になった。
七番勝負を4勝2敗で勝利したのだ。

一番に報告の電話をもらって、その二日後に会う約束をした。
人目を気にしたくないから、場所はヒカルさんの家。
行き方は佐為がわかると言ったから。

「おめでとうございます」

お祝いということで、小さな花束を買ってみた。
初めて上がる家だけれど、佐為が懐かしそうにするから緊張はしなかった。
家の人はいないらしくて、ヒカルさんは慣れない様子で麦茶を持ってきてくれた。

私はもう一つのお土産代わりに、今まで私が記録していたsaiの棋譜のコピーを手渡した。
ネット上には追っかけみたいに、自分のサイトで棋譜を集めてる人とかいるから、
手に入らないものじゃないけど、私が一番全部揃えていることは間違いない。
この中には最高の対局の記録が詰まっているから、棋士にとって良い贈り物であることに間違いはなかった。

ヒカルさんはなにか話をしようとして、言葉を決めかねているようだった。
そういえば、ヒカルさんの目から見れば、この場には二人しかいないのだと意識した。
私を見ながら佐為に話しかけるというのは難しいことなのかもしれない。
だから、まずは対局することを促した。

碁盤に向かうたびに新鮮な気になるのは、この世界に来てからだ。
囲碁という競技自体がどこか崇高な空気を持っているのかもしれない。
生きていたときは毎日部活で打っていたけれど、今は久しぶりの感覚だ。
普段も、棋譜を並べたり、佐為と打ったりはするけれど、どちらも石を持つのは私一人だった。

だから、ヒカルさんが一手を放った瞬間、息を飲みそうになった。
思わず姿勢を正して、佐為の示す場所に石を打つ。
何手か繰り返した。
盤面にいるのはたしかに佐為だ。ヒカルさんはぽつぽつと語りだした。

「俺、本因坊になったんだぜ」

あらためて告げられたそれは、噛み締めるような言葉だった。
再びおめでとうございますと言ってほしいような雰囲気じゃなかった。
だってそれは私に向けられたものじゃない。

「まだ対等になったとは思ってないけど、ちゃんと前に進んでるんだ」

そう言いながら、バシッと音を立てて鋭い一手を放つ。
プロだけあって、打ちざまがすごく格好いい。
私のすぐ後ろで佐為が反撃の指示を出す。
その声はいつもと比べても一際真剣だった。

「お前がいなくなってからも、現れてからも、これからも、進んでいく」

一手。
そしてまた一手。

「俺、決めたんだ」

佐為はただ次の手の指示しか出さない。
まるで自分を表現するものはひとつしかないっていうみたいに。
私を介して会話するよりもそっちの方が伝わるっていうみたいに。

「いつかお前に勝つって」

そのとき、佐為の動きが止まった。
ヒカルさんを見上げた。まっすぐな瞳。

「佐為に勝ちたい。神の一手を目指すんだ。
もう憧れているだけじゃない。
強さが存在意義って言われるくらい、強くなってやるよ」

あまりにもまっすぐな決意の言葉で、
それを聞いた私は平常心ではいられなかった。
ああ、この人の可能性は宇宙のように無限に広がっているのだ。
胸中でそう呟いた感情は必ずしも純粋なものではなかった。
心の奥で、こんな声が聞こえる。 ――『私は?』

この三ヶ月で、私はどれくらい前に進んだといえるだろうか。

繰り返される朝と夜に身を委ねていた。
自分で決めたルールに乗っかって。

saiは、確実に前に進んでいる。
知名度も、実力も日々輝きを増している。
それはsaiの話。佐為の話。

『私』が進んだ距離というのは、限りなくゼロに近い。
という回答を出しそうになって、慌てて撤回する。怖かった。

前に進みたくて生きていたわけじゃない。
望んでいたのは時間の経過と佐為の思いを叶えること。
私の存在意義は強さじゃない。別の枠組みで生きているのだ。

そんなことはわかっている。
どうしてそんな疑問を抱いてしまったのかわからなかった。
けれど、何気ないことほど消えてくれない。

「望むところです」

佐為の声が果てしなく遠く感じた。


 top 
- ナノ -