21.それでも胸の奥に残ってる

「ヒカルさんが勝ってる……!」

その日発売された週刊碁を手にして、歓喜を上げた。
本因坊・緒方九段に対して挑戦者進藤六段が二目半で勝利を収めていたのだ。
佐為と顔を見合わせて喜んだ。
まだ第一局を終えたところだけど、順調のようだ。

あらためて、凄いなあ、と思った。
週刊碁に載っている棋譜からは、一歩も譲らない力強い姿勢が見て取れた。
『進藤ヒカル』は、紙面の上の人なのだと思い知った。
すべての対局が終わって、本因坊になったら、『ヒカルさん』は報告の言葉をくれるだろうか。
電話を受けるのは佐為じゃなくて『私』になってしまうけど。

「うちに帰ったら並べてみようね」

佐為に言って、広げた新聞をしまいながら、
ふと、佐為にとってはまったくもって紙面上の人じゃないのだと思いついた。
本当は、リアルタイムで見たかったんじゃないだろうか。
私はかまわない。でも、佐為はヒカルさんの『師匠』なのだから、
本当なら検討室みたいなところにいるべきだったのではないだろうか。

だってヒカルさんがプロになるまでずっと傍で見守っていたはずだから。
今、二人の間に距離が、隔たりがあることに違和感を感じてしまう。

その隔たりの正体は私かもしれない。
勝手な妄想だとわかっていて、けれど思ってしまった。
佐為を現世に呼び戻したのは私で、つなぎとめているのも多分私だから。
責任を感じたりする。

千年を永らえて、いくつもの変化を体験してきた佐為は、
きっと『昔と違う』ことを既に納得しているのに。

saiとしての日々も順調だ。
プロにさえ追随を許さない強さ。
今日の午前中にも一局を終えた。
午後にも二件予約が入っている。

今は、お昼ご飯もかねた外出中だった。
家の中ばかりにいたら息が詰まるから、ほんとうはできるだけ外で時間を潰すのだけど、
早く棋譜を並べてみたいから、晩御飯のお弁当だけ買って、今日は早く帰ろう。
残念ながら、こんな複雑な棋譜じゃ、並べてみないとよくわからないから。

緩い風を受けながら、こうやって歩いているとき、奇妙な憂鬱さを感じることがある。
どうしてなのか自分でもわからなかった。
実は睡眠が足りていないのだろうか。
この世界に来てから、うつらうつらしたことなんて一度もないけれど。

少なくとも佐為に罪はない。佐為のせいではないことだけはたしかだ。
だから、気づかれないように振舞っている。
それがちょっと義務的で、笑顔を作ると胸が重くなるという悪循環を生む。

ホームシックかもしれない。
そうやって言葉を当てはめると、それっぽくて納得できてしまった。
突然環境が変わったのだからしかたがない。予想していたことだ。
目を閉じれば何の変哲もない日常。今頃どうしてるかな、っていう想像。
あの場所に帰りたいと思う。
一方で、帰れないとわかっている。少なくともあと16年は。

どうしようもないから、空を見上げた。
どこの世界でも同じように見える青い空。

それから、急に立ち止まった私にきょとんとしている佐為を見た。
今日も華麗な打ち回しに感嘆させてもらおう。そうしたらこんな気分は消えるだろうか。
私がいなければ何も始まらない。必要とされている。

自己暗示のような言葉を、密かに繰り返していた。


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