19.色づいていく花びら

「玲奈、玲奈ー」

佐為の声にうっすらと目を開けると、薄いカーテンを通して日の出の眩しい光が映った。
壁に掛かっている時計を見ると、五時半。

「わかった、時間だね」

ちなみに、ベッドに入ったのは深夜一時。
つまり睡眠時間は約四時間半だった。
佐為が心配そうな顔をする。
毎日意味もなくこの時間に起きてるからね。

「起きますか? 昨日も遅かったですし、もう少し寝ていても良いのでは?」
「この時間に起こしてって頼んでるのは私だからね。“起きる”よ」

そう言った瞬間、ぱっと目が冴える。
佐為を呼び出したときにジン君に教えてもらった『言霊』というヤツだ
自分自身への暗示にも効果があることを最近発見した。

人間っていうのは、学校とか自分を縛る規約が無いと思うと、いつまでも寝ていたいと思ってしまうものだと思う。
でも、一日や二日の休日ならともかく、ずっと続く生活ではそんなことって許されない。
寝てばかりいては、佐為が暇になってしまうし。
堕落するわけにはいかないと戒める正義感のようなものがあった。
また、私がなんのためにこの世界にきたのかを考えると、起きている時間を増やしたいと思われる。
実際、別に毎日身体を動かしているわけでも頭を使っているわけでもないのだから、きっと長い睡眠は必要ない。
そもそも神様っていうのは幽霊と一緒で眠らなくてもいいんじゃないかとも思うんだけど、
眠らないっていうのはさすがに人として抵抗があるし、安息の時間はある程度必要だと思う。
「あなたは起きているのに、ごめんね」と言うと、佐為はとんでもないと言って首を振った。
だからリビングには佐為が暇をもてあまさないように、棋譜や週刊碁の過去の記事を並べられるだけ並べてある。


そんなわけで、私は朝早くでも言霊を使って無理やり気持ちよく目覚めて、支度をする。
着替えて、朝食を作って……。
この世界に来たばかりの一週間は、朝食を食べなかったりと不規則な生活をしていたけれど、
最近は佐為が心配するということもあって、三食きちんと食べるようにしている。
朝はコーンフレークとお惣菜か何か。昼は軽い外食。夜は外食か、買ってきたものを食べたり作ったり。
外食のついでに本屋に寄ったり買い物をしたりしているから、この外出は貴重なものだ。

いただきます。と手を合わせるのは私ひとりで、佐為は食事を取らないのだけど、話をするから傍にいてくれる。

一連の朝の準備が終わると、あとは午前七時を目安にして時間を過ごす。
七時、10分前にはパソコンの前に座って、スタンバイ完了の状態だ。
saiへの予約は、毎日、午前に七時からを一件、午後には一時と六時からの二件入れてある。
持ち時間は二時間で、互先だ。
日に三局とは言っても、そのすべてがプロ、もしくはそれに等しい実力者との対局なのだから、
プロの手合いよりも頻度が高いことになる。

毎日暇をもてあましている私たちと違って、対局希望者にはそれぞれの予定というものがある。
だから、予約の割り当てを決めるのは中々気を使ったりする。
パソコンなんかで、出来るだけプロの手合いの日なんかを調べて、重ならないようにするのだ。
一度予約を決めてしまうと、相手の人は大切な予定よりもsaiとの対局を優先してしまったりするから、責任重大だ。
もちろん、これは私の仕事。
『sai』が使っている画面とは別にそういう調べ物をするパソコンが欲しくて、もう一台買った。
チャットの最中、自動翻訳のページを開くのにも使う。

佐為が対局している間、もちろん私は仲介者になりながら、それを見ている。
ときどき佐為は、謎掛けみたいに「玲奈ならどこに打ちますか?」と聞いてくる。
私はそれが好きだ。
面白い発想だと褒めてくれるときもあるし、序盤であればたまに採用してくれたりもする。

ただし、終盤になってくると何が起こっているのか推測することしか出来なくなる。
私は素人、相手はプロと、それ以上の力を秘めた棋士だ。
自分がマウスをクリックして生み出す一手が、
画面の向こうにいる対局相手と世界中の観戦者たちを震撼させているのだと思うと、不思議な気分になる。

佐為は、やっぱり凄い。
ああ、この人は囲碁を打つために生まれてきて、存在し続けているんだな、と思う。
対局中の佐為はとても生き生きしている。
そしてプロとの対局を重ねるごとに、まるで水を得た魚のように、感性の鋭さが増していくのがわかる。
対局が終わると、すべての対局相手がsaiに対して賞賛と尊敬の言葉を送ってくる。
勝ち負けとかそういうものを通り越して、人を憧憬させる棋士。それが佐為であり、saiだ。

あまりにも美しいその一手一手の軌跡を、ネット碁の一局として消えさせるにはあまりにも勿体無い。
そこで、私は用紙を買ってきて、すべての『sai』の対局を、棋譜に記録することにした。
この、世間に出ることのない幻の棋士の対局を誰かが残さなければいけないと思ったのだ。
これだけの観戦者がいれば、棋譜を取っている『誰か』はどこかにいるはずだけど、
きっと私ほどすべての対局に居合わせることの出来る人はいないから。
せっかくだから、佐為の記憶を頼りに、過去の対局もすべて棋譜にまとめようとしている。

ちなみに、対局が終わったあとのチャットは、検討も含めて、許し、受け答えしているけれど、
saiに対して『あなたは何者ですか』などの質問が出た途端に問答無用で中断している。
佐為は、厳しすぎないかと聞くけれど、このくらいの方がちょうどいい。
事実、今では噂が広まって、正体を尋ねてくる人はかなり少なくなった。

『予約』にはだいぶ余裕をもたせてあるし、週に一度は予約を入れない日を作っている。
急な優先したい人との対局をするためでもあるし、基本的には私にとっての休日だ。
それは時間に縛られすぎないようにするためにある。学校でも、週末は休みだしね。
毎日毎日規則正しく予約を入れていくのってなんとなく危うい気がするのだ。
ほら、たまにはぐっすり眠りたいとか、あるでしょ?
過去の棋譜を見るとか、佐為にもしたいことはたくさんあるのだから。
それでも、時間があったりなんかすると、予約なしでもネット碁で対局をしたりする。
休日と休み時間の過ごし方は自由だからね。これに当たった人はラッキーだ。


佐為が毎日レベルの高い相手と対局を重ねられるのはヒカルさんのおかげだ。
そのヒカルさんから、『sai』と塔矢行洋氏との対局日の確認の知らせがあった。
決戦の日は三ヵ月後。
六年の空白があった佐為にとって、きっと焦らずに気分を高めて調子を整えていくのにちょうど良い期間。
私は、そのときを目指して、上等な囲碁漬けの日々を佐為に提供するだけだ。


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