01.まさかこんな日が来るなんて

此処は囲碁部の部室。
グラウンドから運動部の声が聞こえ、それが余計に私たちの間に静寂をもたらしていた。
高揚感で胸が満たされ、唇が弧を描く。
碁盤を隔てて向かい合った人は、意を決したように口を開いた。

「……負けました」
「やった、勝ったあ!」

思わず立ち上がって叫んだ。
後輩が口々に「おめでとうございます」と言ってくれる。
「ありがとう」と返して、そこで我に返って、慌てて対戦相手だった部長に「ありがとうございました」と頭を下げた。
部長に互先で勝利を収めるのはこれが初めてである。

「古戸さん、強くなったね」
「部長のおかげですよー? 入部したての頃は初心者だったし」
「まさか、こんなに早く追い抜かれるなんて」
「ほんと この学校に囲碁部があってよかったです」

特に最近はネット碁が楽しくて勉強を放り出している。
そんな告白に、先輩は優等生だから冗談だと思って笑うけど、現に昨日も宿題さえやらずに、パソコンに向かった。
一時的なマイブームにしてはあまりに長い。けれどそんな状態が心地いい。

「たしかきっかけは漫画なんだっけ」
「そうです。いいかげんに部長も読みましょうよ、『ヒカルの碁』。絶対ハマりますよ」
「いや、俺は……」
「明日持ってきますね」

にっこりと笑うと部長は口を閉ざした。
うーん、絶対将来奥さんの尻に敷かれるタイプだ。
そんなことを思いながら雑談していると、後ろから頭を小突かれた。

「ちょっと玲奈! 対局が終わったなら検討するか場所空けるか、新入生の指導しなさいよ!」
「手厳しいなあ、夏実は。記念すべき部長に勝ったあとくらい余韻に浸らせてくれてもいいじゃん」
「余韻に浸るなとは言ってないでしょ? 『どけ』って言ってるだけで」
「はい、はい」

類は友を呼ぶというか、変わり者と言われる私の友達はやっぱり少し個性的だ。
私に引きずられて囲碁部に入った夏実は、今ではその姉御肌っぷりを見事に発揮している。
ほっとくと脇道に逸れてしまう私を強引に引き戻してくれる一方で、ちゃんと我が儘も聞いてくれるところが素晴らしい。
逆に、たとえば夏実の口調がきつすぎてトラブルが起きたときに、フォローに回るのは私の役目だ。
密かに、理想的な組み合わせだと思っている。

基本的に夏実は正しいことを言うので、どうしても譲れない場合を除いては従うことにしている。
だからテキトーに返事をして片付けを始めたんだけど、部長は生真面目だから、テキトーなんて芸当が出来なくて、申し訳なさそうに謝った。
すると『何故か』部長に甘い夏実の方が慌ててしまって、それを傍観していた部室のところどころから忍び笑いが漏れた。

我が囲碁部は今日も平和である。


ふと窓の外の空を眺めて思いを馳せた。
多分、私は高校時代の殆どをこの場所で過ごすのだろう。
来年になったら部長を引き継いで、みんなと一緒に鍛えて大会に出て、引退して。
そして現部長のように、受験シーズンになっても頻繁に此処に顔を出すのだ。

プロとか院生とかそういう志はないけど、私を囲碁に引き合わせてくれた『ヒカルの碁』という漫画には感謝している。
きっと、一生を囲碁に捧げるっていうのも悪くない。

大人になっても帰宅後とか週末にはパソコンに向かってネット碁を打てばいい。
プロの対局を見に行く機会があってもいい。

漠然と、そんなふうに考えていた。


まさか急に途切れるなんて思いもしなかった。


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