17.君と一緒に、明日をずっと追いかけていこう

「佐為に出会ったのは小六のとき。
もう十年近くになるな。それにアキラ、お前ともか」

待ち合わせ場所に現れるなり、ヒカルは語り始めた。
『許可』とやらが下りたのだと察する。
アキラは、ヒカルの背景にその人物の影を見た気がして、眩しそうに目を眇めた。

「最初にお前と打ったのはsai…――佐為だ」

短い言葉が、聞き逃してはならない、重要な意味を持っていた。
けれど、同時に納得もする。
やはりsaiとは、『もう一人の進藤』だったのだ。
さらなる核心に触れるために質問をした。

「しかし、あれは間違いなく君だったはずだ。
どういうわけだ? saiとは、何者だ?」
「本因坊秀策の亡霊だよ」

間髪を容れずに答えが返ってくる。
冗談のような答えなのに、その言葉が冗談に聞こえないのはなぜだろう。
十年の長きに渡って謎のままだったジグソーパズルのピースが、
空想のような真実を描くために今、繋がる。

「秀策の、亡霊?」
「そう。正確には、平安時代の幽霊が虎次郎…――後の秀策に取り憑いて碁を打ってたんだけどな。それが佐為」
「平安時代? 待て、そんな話が……」
「秀策が流行り病で死んで200年。今度はどういう巡り合わせか、俺に憑くことになった。
でも俺はその頃囲碁になんか全然興味なくて、仕方なく打ってやるって感じだったんだけどな。
お前に会ったのはそんなときだ。あとはお前の知ってるとおりさ」

予想以上に大きな真実に、アキラは思わず「正気か?」とたずねた。
この前とは逆に、ヒカルはけろりと落ち着いている。

「冗談でこんなこと言うもんか。俺は本気だ。
信じる信じないはお前の自由だけど、これがお前の知りたがってた真実なんだ」

まっすぐな視線。けれど、瞳は揺れている。
信じがたい真実。けれど、真実が信じがたいことくらいわかっていたはずだ。
だから、それを受け入れるために、静かに目を閉じた。
そして思い出す。『彼』の強さを。すべてを卓越して尊敬を抱かせた、あの。
そして見る。今や自分の生涯のライバルにまで成長した、『彼』を。
混ざり合っていた二人の『彼』、がやっと分けられる。

「そうだな。僕は信じるべきなのだと思う」
「アキラ……」
「君が僕の、僕が君の対等なライバルであるために」

別人だと思っても、同時に、同一人物だと思ってしまうから、ヒカルにsaiや過去の幻影を求めてしまいそうになることがあった。
それは現在のヒカルの侮辱だともわかっているし、『憧れる』ことは自分にとって良くないこともわかっていた。
未知という見えない影を追いかけていたのでは、いつまでも進めない。
目の前に集中しなくては、じきに現在のヒカルに足を掬われるかもしれない。
ヒカルがアキラに追いついて、隣に並んだのはずいぶん前の話だけれど、
これでやっとアキラもヒカルと本当に対等な位置に並べた気がした。

ヒカルはアキラの言葉の意味がわからないという顔をしていた。
彼は知らないのだ。
『王座』のタイトル保持者であるアキラが、未だにヒカルに強いコンプレックスのようなものを抱いているということを。
それは強く意識しているという意味で、悪いことではないのだけれど。

「僕たちはお互いに追う立場であり、追われる立場であるということだ。
来月の本因坊戦、相手は緒方さんだが今の君なら勝てない相手ではないと思う。必ず勝って見せろ」

アキラの激励の言葉に、ヒカルは力強く頷いた。
本因坊戦に望む気持ちは前からしっかりと持っていたつもりだったのだけど、
ここ一連の出来事によって、さらに勝ちたいと思うようになった。
佐為に強くなった俺を見てほしい。
saiの弟子と名乗ったことに恥じないように。
塔矢アキラのライバルとしてふさわしいように。


碁会所に戻る道で、アキラは細かな質問を始めた。
基本的に、生真面目な性格である。
知りたいことは山ほどあったはずだから、多少しつこいのには目をつぶってやる。

「saiは今、あの玲奈とかいう子のところに?」
「なんでそれを……」

そこまで呟いてから、進藤は慌てて口を塞いだ。
口が軽いのは昔からだ。

「君は藤原という共通の知り合いがいると言った。それはsaiだ。違うか?」
「……悪い。玲奈のことは答えられない。約束なんだ」
「しかし、僕はsaiに会って、もう一度打ちたい。父も再戦を待ち望んでいる」
「どうせ直接会うのは、俺も無理だ。対局なら俺が伝えるから、玲奈には追及しないでくれ。
約束を破ると、もう二度とsaiと打てなくなるかもしれない」

そこまで言われて、アキラは口を噤んだ。
もう一度saiに消えられてはたまらない。

「――しかし、なぜ彼は今なお現代に?
平安時代の幽霊というなら、とっくに成仏しているものだと思うが」
「神の一手を極めるためさ」

ヒカルの何気ないその言葉に、アキラは偉大な棋士の望みを知った。
千年、最善の一手を求め続けてきた。きっとそれがsaiの強さを支えている。
そして彼らもまた……。

「進藤、saiと対局させてくれ」
「もちろんだ。佐為も懐かしがるだろうな」
「言っておくが、懐かしがってもらうために対局をするんじゃない。あくまでも勝つためだ」

鋭く断言したアキラに、ヒカルは目を剥いた
当然だった。ヒカルに碁を教えたのは佐為で、何度も対局したけれど、
絶対的な存在で、勝ちたいと思ったことはあっても、勝てるものではなかった。
いつまでたっても、どんなに強くなっても、佐為には及ばない、と思っていたほどだ。

「当然だろう?まさか指導碁を打ってもらうつもりじゃないだろうな。
君も来月には名実ともにトップ棋士の仲間入りをする予定だろう。
父とも互先で打ったことがあるじゃないか」
「いや、そうだけど……」
「僕は一度でも負けるつもりで碁を打ったことはない。そして、今も虚言を言っているつもりはない」

その言葉はヒカルにも当てはまった。
この六年間、様々な対局を重ねてきたけれど、一度たりとも負けるつもりで打ってことなどない。
そうして高段者と渡り合ってきたのだ。
だから、アキラの言っていることは当然のように思えた。
そこで、ヒカルはやっと自分が必要以上に佐為を神聖視していたことに気づいたのだ。

及んではいけないなんて、そんなことあるわけはない。
勝てるわけがないなんて、そんなことあるわけがない。
未来がある。無限の可能性が。自分で限界を作ってはダメだ。強くならなくてはいけない。
――神の一手は俺が極めるのだから

「そうだな、お前の言うとおりだ」
「やっとわかったか。――それから、父とsaiの再戦も実現させてほしい」
「ああ、それは俺も言おうと思ってたんだ。でも塔矢先生、今は北京でリーグ戦の準備してるんだろ?」
「いや、三日後に一時帰国してくる」
「一時帰国?」
「ああ。saiの復活を聞いたからだそうだ。つまり、お前に会うためだろうな、進藤」


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