12.時間を止めた砂時計

さあ、始めよう。
朝食を食べて服を着替えた。
パソコンの前に座ったら、
新たな伝説の幕開けだ。

saiの三文字を入力して隣を見ると、彼は緊張した面持ちでいた。

「最初は日本人にしようか」
「はい」

話しかけると、短く丁寧ではっきりとした返事が返ってくる。
画面を見つめる横顔は、すでに意識がネットの向こう側に向けられていることを示していた。
せっかくの再デビュー戦なのだから、相手選びも重要な気がして、
余計に悩んでいると、早くも対局の申し込みをされた。
日本人ではない。けれど、断る理由もない。

「受けるよ、いい?」
「ええ」
「もしかして六年前のsaiを知ってる人かな? だったらいいね」
「何故ですか?」
「佐為の強さを知っていて、対局を申し込んでくると言うことはきっと腕に自信があるってことだから」

嬉々として答えると、なぜか佐為は黙ってしまった。
浮かない表情に首を傾げる。

「どうかした?」
「いえ、強い者と対局できるならそれに勝ることはないのですが、
あの頃の私を知っているというのは、……どうでしょう」
「どうして?」
「ヒカルは本当に強くなっていました。
正直、昨日の対局は気を緩めれば負けていたかもしれない。そう思うのです。
知らない間に過ぎ去った月日の長さをひしひしと感じました。
それは、生きて碁に向かい合っていた者ならすべてに言えることでしょう。
それに比べて、私は、玲奈が言ったようにあれから一歩も進歩していない。止まったままです」

ああ、そんな悩みを抱えていたのか、と思う。
私も佐為と同じように時間が止まっているようなものだから、気づかなかった。
漫画の中のこの世界は、佐為が消えた頃と大差なく終わっている。
実際に会ったことがなかったとはいえ、姿形が変わらない佐為のほうが、成長したヒカルさんよりも馴染みがあると感じられるのだ。

でも、私にとっては二人とも初対面だけど、
佐為にとっては見知ったはずのヒカルさんが知らない間に成長していたのだ。
焦りが生まれて当然かもしれない。

生きている人にとって、時間が万人に平等に与えられていると思うのは当然のことだけど、
佐為と……私も、例外だから。

「六年前の自分を知っている人が見たら、今の自分に失望するかもしれない?」

知っている人なら比べてしまうのが当然だ。
そして『変わっていない』ということは、時と場合によっては相対評価で『弱くなった』と感じられてしまうかもしれない。

「そう……ですね、そんなことを恐れているのかもしれません」
「うーん、でもね、たとえばあなたのことを『弱くなった』だなんて感じさせるほどの対局相手は少ないと思うの。
焦ることはないよ。進歩も成長もこれからあなたに起こる確定された未来なのだから。
とりえあえずは塔矢行洋さんと対局するまで、長い年月を埋めるほど、飽きるほど、一日中囲碁を打とう」

そう言うと、歯切れのいい返事が返ってきたので、私は一手目を促した。
当然のように佐為はその対局に勝利した。


午前中には五人と対局した。
すべて相手から申し込まれたものだ。
四人目が特に強くて、素人目だけどプロ並の腕前だったように思う。
対局が終わってから、その四人目の対戦相手は英語でメッセージを寄越した。

「なんて書いてあるんですか?」
「『あなたは六年前にインターネットで活躍していたsaiですか?』だって。Yes、っと」
「あ、また何か来ました」

即座に画面に表示される英文に、少し動揺した。

「Why have you……『どうしてこの六年間姿を現さなかったんですか?』かな。えーっと、なんて返そう?」
「やむをえない事情で、でしょうか?」
「やむをえない事情?やむをえない、事情?……ああ、もう、辞書がない!
『Sorry,I am bad at English』……ごめんなさい私は英語が苦手です、っと。ゴメンもう限界」

相手は私(sai)が日本人とわかっているから簡単な文章を作ってくれる。だからギリギリ理解できる。
でも、返信に関しては、私の英語の語彙力なんてペットボトルの蓋に入る水の容積くらいだ。
せめてもう少し勉強しておけばよかったなあ……と激しく後悔した。

「いえ、私も異国の言葉はわかりませんし……」
「辞書があればもう少しマシだと思うんだよね。
次の対局が終わったら買ってこようか。うん、囲碁の用語が載ってるやつがいいね。
そうしたら頑張ればチャットで検討ができるようになるかもしれない」
「本当ですか?」
「うーん、頑張れば」

そうして私たちは昼食を取るついでに本屋に向かい、
辞書と、棋譜や詰め碁が載っている本と、ついでに漫画と雑誌を購入したのだった。

ちなみに、私たちは知らなかった。
チャットに応答しないと有名なsaiが、短くとも返事をしたことで驚いているその対局相手のことを。
六年の空白を経て再び『sai』がこの世に現れたという事実は、
思ったよりも大きな驚愕を伴って、急速に世界に広まったということを。

砂時計は動き始めた。


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