空を見上げると、陽はすでに傾きかけていた。
冷たい風が吹く。
佐為はずっと棋院の中を見つめていた。
「あ!」
「悪い、遅くなった」
帰宅の準備をしてきた進藤さんが現れた。
荷物を取ってくるだけのわりにはやけに遅かったな、と思う。
「どうかしたんですか?」
「ちょっと友達に捕まってさ……」
「もしかして何か用事があったんですか?」
「いや、いいんだ」
進藤さんはきっぱりと言い切ったけど、
よく考えれば、佐為より優先するような用事はないかもしれなくても、
今日の予定というものはそれなりにあったはずだから、突然訪れるべきではなかったかな、と思った。
「それよりも『話』を聞かせてほしい」
「わかりました。まずは本当に彼が此処にいることを証明をしましょう」
「証明?」
「強さが唯一の彼の存在の証。 だから、打てばいいんです」
少し考えた後の了承が返ってきたので、私たちは近くのファミレスに入った。
いくつかのメニューを注文したあと、荷物から碁盤を取り出す。
さすがに足付きを持ち歩くわけにはいかないので、このときのためにもう一つ買っておいたのだ。
周囲には少し視線を感じるけど、碁会所では進藤さんの顔が割れてしまうだろうし、
saiを知っている人には話を聞かれたくないから、ファミレスにした。
「互先です。握りますね」
「ああ」
進藤さんが盤上に乗せた石は一つ、私が握った石は偶数だった。
この二人の対局の先行を私が決めるというのは妙な気分だ。
「俺は白だな。お願いします」
「――お願いします」
そう言ったのは佐為だったのだけど、その声が進藤さんには届いていない。
仕方ないから、代わりに私が「お願いします」と声を発した。
さっきまでヒカル、進藤さんの成長した姿をしみじみと眺めて、黙っていた佐為は、
碁盤を前にすると表情が変わった。
「右上スミ小目」
指示に従って一つ石を放つと、すぐに一手返される。
佐為が告げた場所に打つだけなのに、
それにも戸惑ってしまうほど二人の対局は展開が早かった。
あっという間に中盤に差し掛かる。
私は素人だから、あまり偉そうなことは言えないのだけど、
目の前で繰り広げられる対局というのは、私の想像の範疇を大きく超えていた。
凄いことが起こっている、というのはわかるのだけど、
その一手一手がどんな意味を持っているのかわかるだけの実力がないのが残念だ。
ギリギリ、どちらが勝っているかくらいはわかるけど。
佐為の力は昼間の対局で十二分に思い知った。
指導碁だったけど、そもそも私は指導碁というのをあまり受けたことがなかったから感動も大きかった。
だって、盤上に光の道筋が見えたのだ。
正しく導かれながら打った碁は、今まで私が打っていた碁とは別のものに思えた。
そんなことを考えながらまた一つ石を打つと、急に進藤さんの手が止まった。
どうしたんだろう?と思って顔を上げると、彼の目から一筋の涙が零れた。
「――佐為だ」
そのたった一言の呟きは、長い月日を埋めるものだった。
振り向けば、佐為も感極まっている。
どうやら私は盤面にだけ囚われてしまっていたようだ。
本来の目的を思い出して、一つ微笑んだ。