彼が『あの』中在家長次であることはひと目で気づいた。

高校に入学してすぐの頃だ。
入学の翌日から図書室を利用していた仙蔵と、数週間後の委員会決めで図書委員になった中在家長次。

初めて長次を見かけたのは、昼休み。委員会の当番だったのだろう、本の整理をしていた。
まさか。と。
そう思った。
仙蔵はこれまで、文次郎以外で過去の知り合いに逢ったことはなかった。広い世界だ。どこで誰に逢うことも想像した事はなかったし、過去の記憶はあれど、仙蔵は確かに『今』を過ごしている。文次郎とも(もちろん奴には記憶が無いのだから当然だが)過去とは切り離して友人をやっている。記憶を取り戻した当時はいろいろと、混乱もしたし、他の子供とは浮いていた自覚はある。…と、そこでふと、幼い頃に一人だけ、過去の知り合いに逢っていたのを思い出した。が、面白く無い記憶だったので仙蔵は頭を振って忘れる事にした。幼い頃はいろいろあったが、落ち着き始めた義務教育期間の9年間は何事もなく日々を過ごしていたのだ。

それが、今になって。

長次を見た瞬間、懐かしいとは思わなかったし、何故とも思わなかった。
気づいたら、開けた戸をそのまま閉めて無表情のまま、教室へ戻っていた。



*



その日から仙蔵は、昼休みと放課後に図書室を訪れなくなった。朝早く、または短い休み時間に図書室を利用する。
なぜかと訊かれてもわからない。ただ、そう、なんとなく。

仙蔵は『過去』の長次の最期を知っている。…実際に傍にいたわけではないが、かつての彼の後輩から聞かされたのだからそれは、信用に足る情報で。…というよりも。

(………)

仙蔵は教室で、本のページを捲りながらも目は文字を追っていなかった。
ぱたり、と閉じる。

(……まあ、長次が記憶を持っているか定かではないのだから…な)
目元を手で覆う。溜息が漏れた。

同じ教室で文次郎がクラスメイトと何か話をしている。こいつこそ、そろそろ道を分かれてもよさそうだと思う。横目で眺める。今年で15…16か。記憶にある文次郎と重なる。性格は面白いほどに変わっていない。熱血で、短気で、かと思えば思慮深い。
(……腐れ縁、だな)
家は近所、幼稚園、小学校中学校はもちろん同じで、何故か高校も(偶然)同じ。最悪なのはクラスも同じだという事だ。
クラス分けが発表された日、掲示板の前でお互い、それはもう微妙な顔をしたものだ。

「お、珍しいな仙蔵」
文次郎がこちらに気づく。
「図書室じゃないのか?」
「最近はいつも教室にいるだろう」
「そうだったか?」
気に留めていなかったらしい。どうでもいいが。
どうでもいいので「そうだ」と答えれば「なんでだ?」と訊く。
「別に。気分だ」
「気分!」
文次郎は奇妙な台詞を聞いたぞとばかりに詰め寄った。話していたクラスメイトも、なんだなんだと聞き耳を立てている。
「昔から難しい言葉を並べて俺を言い負かしてきたお前が、随分と抽象的な台詞だな」
「記憶に無いがそうだったか?」
「そうだったがそれは今はどうでもいい。で、何故そんな気分なんだ」
「お前こそ何故そこまで知りたがる」
「別に。気分だ」
同じ台詞を吐いて笑う。馬鹿馬鹿しい。
呆れて仙蔵はシッシッと手を振った。文次郎は仙蔵をからかって満足したのか、再びクラスメイトと話を広げる。
「………」
一人になり、仙蔵は再び本を開く。やはり文字を追う事は無かった。

頭の中には中在家長次。
アレは…記憶を持っているのだろうか。
(…どんな顔をして話せばいいというのだ)

過去、仙蔵は長次の死に関わってる。

彼方と此方。複雑に絡んだ糸の先に、彼は居た。敵国の忍として。彼の訃報を知らせた彼の後輩は、仙蔵が関わっていた事を知らなかったのだろう。あの頃は長次が死んだ事に何も…そう、何も感じなかった。お互いプロの忍だ。理解していた。悔やむ事も悲しむ事も無い。過去の自分はそうだった。

(……)
けれど。今。

『平和な世界の常識』というものを身につけてしまった『今』の立花仙蔵は、長次と真正面から話をする決心がつかないでいた。
彼が記憶を持っていようが持ってなかろうが、そんな事は関係が無い。
頭では理解している。過去は過去だ。今は今だ。けれど思い出してしまった以上、無かった事には出来ない。そしてそれを、たとえ辛かった出来事でも、無かった事にはしたくない。そう思う。
ぐるぐると、考えているとなんだか目頭が熱い。
泣きそうだ。笑える。どうしてこう、『彼ら』のことになると涙脆いのか。

どうして過去を、思い出したのだろう。

文次郎の笑い声が聞こえる。
楽しそうだ。

「…そうだな」

思い出さなければよかったとは、思わない。
思いたくないから、仙蔵は席を立った。
開けていた窓からの、乾いた風が吹き込んで背を押した。
高校1年の秋の事だ。


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