『あぁ、腹が立つ』
『腹減ったなー』

男が二人、日の明かりの届かない影に居る。
黒い忍装束。泥と血で汚れている。頭巾は包帯代わりに使われ、髪は乱れている。
二人とも、立っているのがやっと、という姿だ。
木の幹に寄りかかりながら、まだ追っ手が無いのを確かめる。
仙蔵は胸に、恐らく助からないだろう傷を負った。
軽口を叩いている文次郎は、左の腕が半分無い。応急処置として巻いている布が赤黒い。

『まぁ、だが、…あと、一人、二人…始末すれば向こうは動きやすかろう』
『だろうな。…はぁッ、ち・と…きつい』
『ほう、弱音を吐くとは文次郎、いよいよ死ぬか?』
ク、と笑う仙蔵に、文次郎は『バカタレィ!』と控えめに言葉を返す。

血の足りていない二人の顔は、青白い。傷口が熱を持っているのだろう、脂汗が泥と混じって肌を滑る。
本来ならば、声を出すのも、立って動く事さえ出来ぬ負傷。
忍務を果たすためという、それだけの為に、二人は追っ手を始末している。

『手持ちの武器はあとこの苦無だけか…お前は?』
『手裏剣2枚、焙烙火矢が…チ、無い。この忍刀だけだ』
ハハ、と文次郎が笑う。

『焙烙火矢の予備が無い立花仙蔵なんぞ、初めて見たわ』
『揶揄っているバヤイか。おい忍頭殿、策はあるか』
『そういう影の軍師殿は?』

見つめ合い、ふ、と二人して笑う。行こうか、とどちらとも無く移動する。
静かに、疾く疾く。音のない姿は黄昏のこの刻に木立の影のようだ。
枝の隙間から見える空は紅い。直に暗くなる。今夜は朔だ。こちらにも、敵にも都合が良い闇だ。
胸元に手を持っていく。ぐちゃりと、服が血を含んでいる。
息も荒い。

あぁ、腹が立つ。

仙蔵は口元に笑みを浮かべた。どうにか、一矢報いたいものだ。
森を抜けたとき、視界に広がったのは、海。
方向をどこで間違えたか、その先は崖だった。
『チッ、ついてないな』
『ハハ、伊作の不運が移ったな』
『あれは悪運は強いからな、こうはならんだろう』
『言えてる、ぜッ』
キンッ、振り向き様に苦無で手裏剣を弾き落とす。

抜けて来た森はすでに暗く、追っ手が隠れる位置が掴めない。
背後は今にも日が沈みそうな海。紅く煌き、波の音が崖の下に聞こえる。随分と高そうだ。

『…面白いほど絶体絶命のピンチってやつだな』
『ふん、こういう時は正義の使者という奴が登場するらしいぞ?』
『ああ、長次が読んでたな、そういうの』
『生憎と、この場にそんなものは居ないがな』
『いらねぇ、よッと!』

文次郎に向けて放たれた矢。仙蔵は矢を無視して相手の位置を特定し、手裏剣を投げつける。ぐ、と呻き声が返る。近づく事はせず、油断無く探る。自分たちの周りに身を隠せる物が何も無いのは痛手だった。二人、持つ武器は接近戦に長けたものだ。だがこちらは手負い、むやみに近づいても力押しで負けるだろう。

が。
『そこか!』
ドン、と忍刀を地面のある場所に打つ。ドカッ、と森の外れで音がし、悲鳴が聞こえた。

『元作法委員長・現フリーの戦忍、立花仙蔵を、手負いだからと甘く見るなよ?』
『……、変わんねぇなお前…』
何を思い出したのか、文次郎はぶるりと身を震わせた。
いまので、二人。生死の確認は出来ていないが、一人は仙蔵の罠に落ちて身動きが取れないはずだ。

『穴を掘ったのはお前だろう。相変わらず小平太と変わらん速さだ』
『腕ひとつ欠けても鈍りゃしねーよ』
『減らず口を』
『てめーもな』


卒業して暫くは、それぞれ別の城に仕えた二人。その後フリーとなり、裏の世界では立花仙蔵と潮江文次郎の名は西に東に広く知れ渡った。彼らが再び出会ったのは偶然だったが、双忍を組んで忍務を請け負ったのは文次郎の提案だった。名の知れる二人を都合よく使おうと、雇い主の意図は二人に筒抜けではあったが、ならばより完璧に忍務を遂行してやろうと二人は意見が一致したわけだ。彼らを良くは思わない城仕えの忍が、それとなく嫌がらせとして使えない部下を何人か、二人につけたのも、まぁこれまでにも、無かった事が無いわけではない。相手の城に、学園の後輩が居たのも初めてではなかった。
『どちらが悪かと聞かれたら、それは恐らくこちら側なのだろうと思うよ』
『戦に善悪なんかあるかよ』
山田利吉が、二人が学園の生徒である頃からフリーで活躍していた凄腕の忍が、相手の城に仕えていたのもまた偶然だ。フリーである、彼自身は、敵でも味方でもない。それに関しては、ただ、時期が悪かっただけで。
部下を、3人失った。

『あの人全く手加減ないな』
失った左腕を上げる文次郎。昔から尊敬していた人だ、こういう場ではなく、もっとマシな場でまみえたかった。
だが、それも過ぎたことだ。忍務を受けた事を悔いているわけでもなければ、山田利吉を恨んでいるわけでもない。自分たちの力が足りなかった、と、それだけだ。
忍務は失敗ではない。完璧とまでは言えないが、成功している。この追っ手を斬れば。


『静かだな…』
『……』
波が打つ。
森は静かだった。

目を細める。
刻々と闇は森の奥から迫る。
前に立つ、文次郎の背中が紅い。胸に傷を負い、意識を飛ばした仙蔵を負ぶった時のものだ。
助からぬ傷だ。捨てればよいものを。文次郎のくせに。

ふ、と嗅ぎ慣れた匂いに気づいた。
『文次郎ッ!!!伏せろ、火縄銃だ!!!』

文次郎は背を向けたまま笑った。
『バカタレ』
破裂音。

文次郎の右肩から血と肉片が散った。文次郎はそれを無視して草むらに跳ぶ。
忍刀を握る自分も、一瞬遅れて跳んだ。文次郎は正面の、火縄銃。仙蔵が目指したのは一番初めに仕掛けた左。
ぎゃあ、と悲鳴が背後で上がった。文次郎ではないから追っ手だろう。

こちらも、手裏剣の毒で痺れている忍を視界に入れる。急所に刀を突き立てる。が、相手はギリギリのところで避け、手持ちの短刀を横に薙ぐ。自慢の髪を切られた。が、たかが髪、痛みはない。半歩踏み込み、相手の死角に潜り、わき腹を肘で撃つ。流れる動きに相手は、痺れもあって反応は遅くあっけなく倒れた。仙蔵は確実に相手を殺すと、肩を使って息を吐いた。膝が折れる。ひゅうひゅうと、気息が怪しい。胸から溢れる血が止まらない。

これは、いよいよ………、っ。
『もん、…ろ…』
ここで倒れるわけにはいかない。
仙蔵は刀を杖代わりに立ち上がり、無理やり息を整える。茂みから抜け出せば、文次郎がぎょっとした顔で駆けて来た。

『おい、仙蔵、せっ』
『やかましい。怒鳴るな阿呆。まだ聞こえる。…終わったか?』
『…穴の奴も始末した。終わった…いや、どうだろうな…感覚がバカになってやがる。片方の目が見えんし。声も遠い』

ぼたり、と文次郎の左腕から血の塊が落ちる。
二人とも見事な様だ。笑えたので笑ったら、口内に血の味がした。ついにここまでキたか、と更に笑えて少し咽た。胸が馬鹿みたいに痛い。『お、おいおい』と文次郎が呆れ声で仙蔵の肩を支える。

『3人始末した。一矢どころか三矢報いてやったぞ』
『部下の分、一人につき一矢だ。…ああ、俺たち2人分が無いな』
『いいさ、もう…疲れた』
『腹減った…』
『そればかりだなお前は』
とん、と文次郎から離れる。鉄粉おにぎりでも食っていろ、と軽口を返して。

集中して、森の奥を探る。
気配は、無い。
ふ、と息を吐く。

振り返れば、日が海の向こうに沈むところだった。
紅い空も、藍が濃い。今夜は朔だ。身を隠して移動するにはいい闇だろう。

『…文次郎』
『なんだ』
『あとどれほど、歩ける』

海を眺める。そういえば、兵庫水軍はどうしているのか。学園に居た頃は、よくわからないネットワークで色んな城や人々と繋がっていた。独り立ちした今、あの学園の存在の大きさを知る。

『…血が足りん。森を抜けられるかどうか怪しいところだな』
『お前、私を負ぶっていくつもりだろう。それを抜きにして、だ』
『なんとか…町までは…ってお前歩けるのかよ』
『そう見えるか?』
哂う。

存外、今回の忍務は面白かった。数年振りの友人は全く変わっていないし。尊敬していた山田利吉とも、まぁ状況はどうあれ手合わせ願えたのだから。忍務も果たして成功といえる結果であろう。問題は無い。

『日が沈むな』
『忍務完了、か。長い一日だったぜ』
日没まで、追っ手を引きつけること。日が沈めば、軍が動き城攻めが始まる。そこからは武将の仕事だ。裏舞台の人間の出番は無い。もし残っていた追っ手がいたとしても、引き返したところですでに時遅し。二人の手で情報操作された敵の城内は混沌としているだろう。一瞬、城内で見かけた後輩が気になったが、まぁあれはあれで平気な顔をして生き残るだろう。またはあっさり死んでしまうだろう。どちらでもよかった。生きたいと望むなら生きるだろう。
『またいつか出会えばいいさ』
ふと零して、そんな事があり得ない事を思い出す。胸に手をやる。
波の音が近い。
『おい、あんまフラフラすんなよ』
『文次郎』

ぐちゃり、と血が溜まった胸元を押さえる。
声が掠れる。なんだか耳も遠い。めんどうだな。
視界が白い。身体がだるい。最悪だ。

文次郎が青白い顔を更に青くして一歩、こちらに寄る。
仙蔵は一歩、進んで振り返る。文次郎の背後は闇だった。闇は私たちの世界だ。
笑む。

『ハ、おいおいふざけるなよ、オレを置いてく気か…?…ッ!?…せ、ッ!!』
『………』

声は出なかった。言葉になりそこなった口元が、伝えようと言葉を刻む。
また一歩、後ずさったその場所に、地面はなかった。
波の音が近い。
文次郎が手を伸ばす。

『仙蔵!!!!!』

仙蔵も手を伸ばした。掴むためではない。
声が、言葉が最後に出ないのはなんだか悔しくて、叫んだ。

『文次郎っ』
続く言葉は、やはり音にならず口元に残ってしまった。

…まあ、いいか。

『仙蔵!!!!』
波の音が近い。


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