――この手は人を殴ることを知らない手だ。三郎は思う。この目は人を憎むことを知らない目だ。この時代は、争いを、命の奪い合いを知らない。
泣かせたくないと思う。泣いてほしくないと願う。そんな顔を見たくない、と。だから三郎は、どこまでが偽りかわからなくなりながら、笑う。

「なんだったら調べてみる?」

最初に一発頬に喰らってしまった以外は無傷なのだということを信じない雷蔵に、三郎は完全に冗談のつもりで笑った。笑うと、そのうち痣ができそうな頬がずきずきと痛んだ。
すると、雷蔵は真剣にうーんと唸ったので、三郎は慌てた。だって悩み方が、どこをどう調べるべきか、だったのだ。

「うそうそ、冗談だ。『私』は無事だよ」
「ほんと?」
「ああ、むしろ大人げなかったかもしれないくらいだ。人数が多かったし、少しイライラしてたからあまり手加減しなかった」
「は…?」

雷蔵は三郎の言った意味がわからなかった。
だが、考えてみれば、大勢の上級生に呼び出されて『無事』というのも変な話だ。顔を殴られたのは目立つが、少なくとも三郎は今ここにいて、ひとりで元気そうに平然と立っている。昼休みが終わるにはまだもう少し時間もあるし、雷蔵がここに来るまでにそれらしき上級生を見かけなかったということは、いまだ体育館裏にいるということなのだ。すなわち、地に伏しているということなのだ。
ようやく三郎が上級生を返り討ちしたという事実に気づいて、雷蔵は目をぱりくりさせた。

ちなみに、自分を『私』と称した三郎には不思議と違和感を感じず、受け流してしまった。彼は普段から違和感のかたまりなのだ。いまさら何がイレギュラーなのかもわからない。
三郎はさらに笑顔で言った。

「次は容赦しないって殺気出して脅しといたから、しばらくは手出しされない」
「……三郎ってそんなに喧嘩強いの?」
「まあね。素人には負けないよ」

前世の記憶を持っているというのはそういうことだ。こなしていた忍務に比べたら、たかだか平和な世に生きている高校生を気絶させることなど容易い。特別鍛えているわけではないので身体は昔ほど自由に動かないが、それでも感覚は残っているし、人体の急所も覚えている。
仮にもプロだったのだから、素人相手に本気になるのはさすがに大人げないとも思った。だが、絶好のタイミングで声をかけてくるほうが悪いのだ。神経を逆撫でされ、憂さ晴らしをしてしまった。せっかくならしっかりと牽制しておいたほうが後々に良いとも思った。
ひとたび陰りに身を任せれば、堕ちていくばかりだった。暗い眼をした獣が暴れていた。今でも、ときどき堕ちる夢を見る。手が届かない瞬間を、目の前で倒れる『彼』を覚えていて、闇に飲み込まれそうになる。
さっき雷蔵に抱きついたのは、顔を隠すためというよりも自分を取り戻すための充電のつもりだったのだ。

両親のことは、現代に生きた三郎にとって憎しみに結びつきやすい事柄なのだ。
母親は雷蔵だけを連れて家を出た。すなわち、三郎を棄てた。父親と二人の生活など、ゴミ捨て場のようなものだと思っていた。母は若かったはずだし、連れていくのは一人が限界だったのかもしれない。それでも、それだけの無茶をさせる価値がなかったのだと三郎は幼心に理解した。三郎は父親に目つきが似ているらしいから、母はその面影を恐れたのかもしれない。
けれど父親にとってみれば、三郎は雷蔵と同じく母親に似ているらしい。勝手なものだ。――だからあいつは、「お前は捨てられたのだ」と何度も俺を罵倒した。自分の首を絞めていると気づかないバカだった。
痛みの記憶は褪せない。

高校に入るまで、三郎は雷蔵のことを意識していなかった。
それは、きっと忘れようとしていたのだ。妬ましくなるから、惨めになるからだ。何もかもが嫌で、自分の運命を呪っていたから、マシな環境に置かれた片割れがいるという事実は頭から排除していたのだ。
きっと、雷蔵を恨みたくないという、魂にとってせめてもの理性だったのだろう。

記憶を得た今ではむしろ、三郎と雷蔵を十年以上も引き離した両親が恨めしい。
そんなふうに、三郎の中には常に二種類の感情があるのだ。互いに譲歩しあえばいいのに、それぞれ灰汁が強すぎて混ざり合わない。ひとつの魂に住んでいるのに価値観が違うのは、歩んできた人生の差が大きいからだ。仲良くできないのは、きっと互い――つまり『自分』が嫌いなのだ。

なんにしろ、雷蔵が気にするようなことじゃない。
――俺の代わりに雷蔵が、あのクズに引き取られていたと思うと吐き気がする。今思えば、俺でよかった。
たとえもう一方と相反していても、少なくとも今は、雷蔵の傍では、心からそう思える。
それなのに、どうして割り切ることが出来ないのだろう。


「ヒトの心は難しいね、雷蔵」


何気なくつぶやくと、雷蔵は聞き取れなかったらしいから、なんでもないと笑う。
頬の湿布をもらいに保健室に行く途中だった。雷蔵の、心配してたんだから、という愚痴を聞くのは、不謹慎でも嬉しい。
けれど相槌を打ちながらも、まだ闇に足を引っ張られていた。何かが胸に引っかかる。一度始まってしまった思考をそう簡単に中断できないから、少しでも心を穏やかにするために、理性的に考えようと努めた。

十年以上も引き離された。
けれど、今思えば、そもそも二人が双子として生まれたのは類稀な奇跡なのだ。
かつての三郎の両親とも、雷蔵の両親とも違う、現在の二人の両親を思い浮かべる。
そのとき、ふと、ひらめくものがあって、三郎は足を止めた。

「どうかした?」
「いや、今なにか」

なにか、とんでもない仮定を考えてしまった。
曰く、そもそも両親こそが――三郎と雷蔵がこうして出会うために運命に用意された踏み台だったのではないか、と。
あまりにも自分本位過ぎる恐ろしい考えだと思った。
だが、もっと恐ろしいのは否定できないことだった。

鉢屋と不破の姓を持ち、だが互いに精神をぼろぼろにして離婚した両親。
前世では血縁上のつながりなどなかった三郎と雷蔵が、双子で現世に存在しているというイレギュラー。
すべてがそれを叶えるために準備された舞台だったとしたら?

それでは前提条件が崩れる。発想の展開というものだ。
結ばれるべきでなかった両親の運命を無理やり捻じ曲げたのは自分たち――三郎ということだ。そういう筋書きだったということだ。
妙に納得できてしまい、視界が開けたように、今、歯車が噛み合った。二重に存在していた『自分』が綺麗に混ざり合っていくようだった。

そう思うと、三郎はこらえきれず雷蔵に抱きついた。そして肩を震わせ、声を上げて笑い出した。

「ははっ あははは!」
「なに、どうしたの?」
「なーんでもない」

頬が引きつることも、腹が痛くなることもかまわず笑い転げた。訝しげな雷蔵の視線が痛い。
まったくもって、神様というのは趣味が悪い。恨むべきか恨まざるべきかを彷徨っていた。むしろ哀れめばよかったのだ。
奇跡に上限があるのだとしたら、今までの道のりも必要なことだったのだ。その証拠に、こうして高校で再会できた。
前世で三郎は、まともな生き方をしていたとはいえない。時代が時代だ。その罪悪を思えば、死に別れたことを思えば……。

新たに気持ちの整理をするにはまた時間がかかるかもしれない。
それでも、運命を呪った日々も、大嫌いな自分自身も、すべてを愛しく思える日が来るかもしれない。
少しずつ、少しずつ。


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