昨日は、三郎が帰ってからなんだか会話が弾まなくて、本来の目的である勉強がはかどってしまった。皮肉な話だと思う。
それでも、今日になってみると三郎は何事もなかったかのような顔をしていたから、雷蔵はほっとした。

もしかして三郎は、十年以上も会わなかった母親には何も感慨を抱いていないのだろうか? まだ隠しておきたい、言い出す決心ができないと言ったのは雷蔵だ。三郎のほうはとっくに割り切っているのかもしれない。だから血が繋がっていても友達として接してくれるのかもしれないと、雷蔵は考えた。


昼前の体育の授業が終わると、三郎はあっというまに制服に着替えた。気づかないうちに終えてしまっているのだから、いつもながら驚異的な速さだ。
そして今日は、ちょっと用があるからと、雷蔵を待たずにどこかに行ってしまった。遅くなるかもしれないから先に食べてて、という言葉を残して。飄々として、掴み所のない奴だ。

だが、ふと思いついて、「いってらっしゃい」と言ってみた。
すると三郎は、期待通り一瞬子供のように嬉しそうな顔をして「うん」と一つ頷いた。
勉強会のときに気づいたことだが、どうやら三郎は見送られることが好きらしい。なんだかおかしかった。可愛いところもあるじゃないか、と、彼のことをひとつわかった気になったのだ。


雷蔵とハチが着替えを終えて戻ると、兵助が3組の教室の前で待っていた。
弁当と、現代社会の教科書を手に持っている。さっきの時間に三郎にでも借りたのだろうか。

「三郎は?」
「用事があるんだって。教科書なら席に置いとけば?」
「これは俺の。あいつ落書きだらけにして返しやがったから文句言ってやろうと思って」
「うわあご愁傷様」

三郎の悪戯好きには困ったものだ。叱っても懲りる様子はなく、もはや日常茶飯事となってしまっている。
はじめはハチを標的にしていたが、最近は兵助にターゲットを移しているらしい。
兵助が愚痴ることは中学時代には珍しかったのだが、今ではすっかり三郎に口うるさくなった。


3人が食べ終わる頃になっても、三郎は屋上に現れなかった。
昨日の今日ということもあり、雷蔵はなんだか落ち着かなかった。おかしい、何してるんだろう? と不安になり、ついに「ちょっと教室見てくるね」と立ち上がった。


教室に向かう廊下で、見知らぬ先輩とすれ違い、「ん?」と声を上げられたので、立ち止まった。

「なにか…?」
「お前って剣道部の奴らに呼び出されてんじゃねえの?」
「え」

雷蔵は上級生に不穏な声をかけられた記憶もなければ、目を付けられるようなことをした覚えもない。
あるとすれば、三郎のほうだ。
気づいて、怖くなった。
すると、もう一人の先輩が、さらに口を挟んだ。

「なあ、もしかしてそいつ『不破』のほうじゃねえ?」
「え、なにそれ」
「噂になってただろ。双子だのドッペルゲンガーだの。マジで同じ顔なんだ?」

覗き込まれるようにまじまじと興味津々で眺められて、居心地が悪かった。
双子を隠したら、怪奇現象が残ってしまった。ごまかせていることを喜ぶべきなのかどうなのか…。
今はとにかく三郎のことが気になっていたので、かまわず本題に戻す。

「あの、三郎が呼び出されたってどういうことなんすか?」
「そのまんまだよ。アイツ前から目付けられてたし、今日の朝になんかあったらしい」
「わざわざ生意気なこと言ったんだろ? バカだよなあ、けっこうな人数集めてたんじゃね?」

雷蔵は、さあっと血の気が引いていくのを感じた。

「それって、どこに呼び出されたか知ってますか」
「たぶん体育館裏だけど、やめといたほうがいいぜ」

そんな言葉はほとんど耳に入っていなかった。ありがとうございますとひとつ頭を下げて、駆け出した。
不安と焦燥が胸で暴れる。苦虫を噛み潰すように声を漏らした。

「あの馬鹿……っ!」



だが、校舎を出たところで、雷蔵は足を止めた。『僕が行っていいのか』という迷いが生じてしまったためである。
正確な状況がわからない。上級生が大勢いたとして、何ができるというのか。もしかして誰か助けを呼んだほうがいいのだろうか。けれど、誰を呼べばいいのかすぐには思い浮かばない。
三郎を助けたいのに、動けない。足が動かない。そんな自分が嫌になった。いったん悩み出すと底なし沼なのだ。
そのとき。

「らーいぞっ!」

背後から突然抱きつかれて、雷蔵はわああっ! と声を上げた。
それから、親しみのある感覚に結びついた。

「さ、三郎? なんで」
「雷蔵ってば、目の前にいても全然気づかないんだもん。何を悩んでたんだ?」

ぬけぬけと笑う三郎に拍子抜けする。「どうかした?」なんて、明るい声の調子で言うのだから。

「……三郎が、あんまり遅いから」
「ああ、ごめんね。用事が思ったよりも長引いちゃって」

雷蔵は先ほど話を聞いていたから、その『用事』という単語に敏感に反応した。
いまだに三郎はぎゅーっと雷蔵に抱きついたままだ。それでは顔が見えないのだということに気づいた。

「ちょっと離して」
「ヤだ」
「こんなときにふざけないで」

子供のように駄々をこねる三郎を、無理やり引き剥がす。
声では不満を主張しながらも、俯いたその右頬は、赤く腫れていた。誰かに殴られたのだ。

「ちょ、腫れてるじゃないか!」
「気にするな。事故みたいなものだから」
「事故?僕は先輩に呼び出されたって訊いたんだけど」

そう言うと、三郎はぴくりと表情を動かし、真剣な表情でたずねた。

「誰から?」
「通りすがりの先輩。そんなことより、他に怪我は?」
「これだけだよ。冷やせばすぐ治るさ」
「本当? 本当に?」

三郎は嘘が上手いから、雷蔵は信じていいのかどうかわからない。信頼しているのに信用できないというのはつらいことだった。
その痛みを思い、泣きそうに顔を歪めた。


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